26話(白状)
屋敷へ戻ったルカを出迎えたジョアンナは、すぐにその様子がおかしいことに気づいた。
「お帰りなさい、ルカ」
「……ただいま」
いつもなら、帰ってくれば軽く抱きしめてくるはずの彼が、横を通り過ぎた。
それに子供たちの様子を尋ねることもなく、今日はどこか上の空だった。
顔色も、少し悪いように見える。
「ルカ……?」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……何でもない」
そう答えたものの、ルカはなぜか落ち着かない様子だった。
ジョアンナは、しばらく黙って夫を見つめた。
やはり何かあったのだ。
そう思った瞬間、胸の奥に、以前から燻っていた疑念が蘇る。
あの日、ルカが港へ向かった直後、マリアンヌがジョアンナのもとを訪ねてきた。そこで彼女から聞かされたのは、ルカが外泊した夜、自分がずっとそばにいたということ。そして、その場にクリスティアナも現れたということだった。
さらに、ジョアンナはマリアンヌの父である伯爵へ、ルカが夕食に招かれたことへの礼状を送っていた。そして、そこから返ってきた返事によって、ルカが伯爵家に招かれてなどいなかったことも知った。
それでもジョアンナは、これまで何も尋ねずにいた。
(だけど……今なら聞けるかもしれない)
「ルカ」
「……何?」
「少し、お話ししたいことがあるの」
ジョアンナがそう告げると、ルカの表情がわずかに強張った。
「話って?」
「先日、マリアンヌ様のお父様に、お手紙を送ったの」
「……手紙?」
ルカの顔から、すっと血の気が引いた。
その反応だけで、ジョアンナには十分だった。
「ええ。貴方が先日、伯爵家へ夕食に招かれたことへのお礼を申し上げる手紙です」
「……」
「その返事が、届いたのですが……」
ルカは何も言わなかった。
「伯爵様からのお手紙には、こう書いてありましたわ」
ジョアンナはそのまま続ける。
『何かのお間違いかと。私どもは侯爵様をお招きした覚えはございません』
「……ジョアンナ」
「ですから、わたくしは知っています」
責めるつもりはなかった。
だからこそ、できるだけ穏やかな声で伝えた。
「貴方は、あの日……伯爵家には招かれていなかったのですね?」
「……」
ルカは、しばらく俯いていた。それでも、彼は心を決めた。
「……ごめん」
その一言に、ジョアンナの胸が締めつけられた。
「どうして……嘘をついたのですか?」
「いいや、初めは僕もマリアンヌ嬢からは伯爵が会いたいと言っていると聞かされたんだ」
ルカは言葉を詰まらせた。
ジョアンナは、急かさなかった。
ただ、黙って彼の言葉を待った。
「……そしてあの日、僕は港へ行ったんだ」
「港へ?」
「そこにある、伯爵家所有の客人用の宿泊施設。そこに伯爵が来ると言われた」
ジョアンナはまだ、黙ったまま聞いている。
「そこで、マリアンヌ嬢から父が来るまで飲んでいてくれと飲み物を渡された。だが、それを口にした直後、急な眠気に襲われてしまった。そして目を覚ますと……隣にはマリアンヌ嬢が寝ていたんだ」
ジョアンナはできるだけ動揺を隠した。
「そこで驚いた僕が声を上げると扉が開き、クリスティアナが姿を現したんだ。あの女は僕らを見ると笑っていたんだよ。僕がいくら否定しても無駄だった。その時すべて悟ったよ、何もかも嵌められたと」
「実はわたくし……その話はマリアンヌ様から聞かされていました」
ルカは思わず目を見開いた。
「彼女と会ったの?」
「ええ。ルカが居ないのを知っていたかのように一人で訪ねてきたの。マリアンヌ様のお父様にお礼のお手紙をお出ししたのは、その直後だったわ。彼女の話が本当なのか確かめたかったの」
ルカはすまなそうに俯いた。
「クリスティアナは僕に、今、面倒を見ているある伯爵との話を受けろと言ってきた。彼女はその伯爵を騙して結婚するつもりだ」
「……」
「僕が断ったら……」
ルカの拳が、強く握りしめられた。
「ジョアンナに、あの夜のことをすべて話すと脅された」
ジョアンナはそっと夫を見つめた。
「それで……わたくしに嘘を?」
「……すまない」
ルカは顔を上げることができなかった。
「ごめん。本当に……ごめん」
「ルカ」
「僕は、貴女を傷つけたくなかった」
「……」
「だから、どうすればいいのか分からなくて……」
その声はとても辛そうだった。
彼は、ずっと一人で抱え込んでいたのだ。
しばらく黙り込んでいたルカが、やがてぽつりと口を開いた。
「……昔ね。まだ僕が幼かった頃、近所の人に言ったことがあるんです」
「何を……?」
「『僕なんて、いらない子なんだ』って。いつも一人ぼっちで遊んでいましたから」
ルカは、少し寂しそうに笑った。
「そうしたら、その人が『子供を思わない親なんていないのよ』って言ったんです」
「……」
「僕はそれを聞いて、『そうなのか!』って嬉しくなった。母も本当は僕のことを大切に思ってくれているんだって……そう信じたかった」
ルカは、遠くを見るような目をした。
「でも、大人になってから、思ったんです。どんなことにも例外があるんだなって」
「……ルカ」
「そして、その例外が……僕だったんだって。あの人には、最初から最後まで母親の愛情なんてなかったんだ」
ルカは少しだけ目元を緩めた。
「でも、そのあと侯爵邸でジョアンナと暮らすようになってからは、一人ぼっちだなんて思ったことはありませんでした」
「……」
「貴女は、いつだってありったけの愛情を注いで、いつも僕のそばに寄り添っていてくれたから」
少し照れくさそうに笑う。
「だけど、今だから白状するけど、あの頃から貴女に向けていた気持ちは、母親を慕う気持ちじゃなかったと思う。だって、ジョアンナのことを一度も母親だなんて思ったことはなかったから」
「え……?」
「きっと、初恋みたいな気持ちだったんだと思います。それでも気づかれないように装っていましたけれど……」
そう言って、恥ずかしそうに笑った。
思わぬ告白に、わたくしは笑みをこぼした。
「まあ……ずいぶんとませていたのね」
(ああ……だから昔、お父様がクリスティアナ様を連れて戦地から帰還した時、あれほど吹っ切れていたのね。今なら、その理由が分かる。ずっと複雑な思いを抱えていたのね。辛かったわね、ルカ……)
「だけど……あの時に母親の愛情を諦めたからこそ、今回、実の母親から脅された時も、やはりこの人なら平然とこんなことをするんだなと思うだけで、寂しさは感じませんでした」
ルカが、ふっと表情を和らげる。
「それに、今の僕には、誰よりも愛する家族ができました」
そう言って、ルカはわたくしを見つめた。
「ジョアンナがいて、リーガルがいて、リリアがいる。それだけで、僕は十分幸せです」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「だから……もう、母に愛されなかったことを悲しむ必要なんてないんだと思えるんです」
その言葉には、寂しさよりも、今ある幸せを大切にしたいという思いがあった。
わたくしは、そっとルカの手に自分の手を重ねた。
「ルカ……もうこれからは一人で悩まないで。わたくしは、あなたの妻ですわ」
ルカが、ゆっくりと顔を上げる。
「あなたが困っているのなら、一緒に悩みたいのです」
「ジョアンナ……」
「それに……」
ジョアンナは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「わたくしに話せば、きっと傷つけてしまう、そう思ったのでしょう?」
彼は黙って頷いた。
「でも、何も話してもらえない方が、わたくしはずっと苦しいのです」
「……ごめん」
「もう謝らないで。ルカ」
「あの女は……僕に、子供たちのためだって。伯爵領を、将来子供たちに残すこともできるって。そんなことまで言ってきたんだ」
ジョアンナは静かに聞いていた。
やはり、クリスティアナはそこまでしてルカを自分のために利用しようとしている。
「でも、僕は絶対にあの女の思い通りにはならない」
ルカの声には、はっきりとした意志があった。
「だから、君に嘘をついたことだけは、本当にごめん」
ジョアンナはしばらく夫を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「もう、分かったわ。わたくしは、あなたを信じています」
その言葉に、ルカの目が大きく見開かれた。
「……本当に?」
「ええ」
ジョアンナは、優しく頷いた。
「ですから、これからは何かあったら、わたくしにも話してください」
「……わかった」
「決して一人で抱え込まないで」
「約束するよ」
ルカはようやく、少しだけ笑った。
ジョアンナも微笑み返す。
クリスティアナは、二人の間に秘密を作れば、夫婦の間に亀裂が生まれると思っていた。
だが、皮肉にもその秘密を打ち明けたことで、二人の間には以前より強い信頼が生まれていた。




