22話(後ろめたさ)
お昼前、ようやく屋敷の外から馬車の音が聞こえた。
わたくしは急いで玄関へと向かう。
扉が開くと、そこには疲れた顔をしたルカが立っていた。
「ジョアンナ……ごめん。心配をかけたね」
「お帰りなさい、ルカ。でも無事でよかったです」
無事な姿を見て安心するはずなのに、わたくしの胸の奥のわだかまりは消えてくれなかった。
(……どうして?)
ルカは優しく微笑んでいる。だけど、その目はまるでわたくしを避けるように泳いでいる。
いつものように軽く抱き締めてはくれなかった。
ただ気まずそうな雰囲気を感じた。
「昨夜は伯爵様との話が長引いてしまってね。そのまま客人用の部屋をお借りしたんだ。連絡が遅くなってすまなかった」
「いいえ……お仕事なら仕方ないわ。でも、お疲れでしょう? 何か温かいものでも用意させますね」
「ありがとう。でも少し執務室で整理したい書類があるから、部屋の方に持って来るようにメイドに言って」
そう言ってルカはわたくしの肩にそっと手を置いたが、その手はぎこちなく、すれ違いざま、ほんの少しの香水の香りがした。
去っていく彼の背中を見つめながら、わたくしはぎゅっと胸元を握りしめた。
(ルカは、わたくしに何か隠し事をしている……?)
不安で胸が押し潰されそうだった。
それでも、問いただすことはできなかった。
疑いを振り払うようにわたくしは自分に言い聞かせた。
(本当に伯爵様とのお話が長引いただけなのよ)
今は、疲れているルカにこれ以上この話題をするべきではない。
わたくしはそれ以上考えないようにした。
だけど、それから数日が経っても、あの日のことが頭から離れることはなかった。
ルカはいつも通りに接してくれている。
仕事の話をするときも、子供たちと過ごすときも、以前と変わらない。
それなのに、ふとした瞬間に見せる表情が、やはりよそよそしく感じられる。
(やはり、何かあるのかしら……)
そう思っても、ルカに直接尋ねる勇気はなかった。
もし本当に何もなかったのなら、わたくしが疑っていることを知られたくない。
そんなある日の午後だった。
「奥様、お客様がお見えになっております」
「お客様?」
「はい。伯爵家のご令嬢のマリアンヌ様と仰っております」
「……マリアンヌ様が?」
思わず聞き返した。
ルカは、新しい作物が届いたと連絡が入り、今しがた彼女の領地内の港に向かったばかりだった。
だからこそ、彼女もあえてこの時間を選んだのだろうか。
「応接室にお通しして」
「……分かりました。すぐにお伝えして参ります」
わたくしは一度だけ息を吐き、一旦私室に戻り身なりを整えた。
そして応接室に向かい扉を開けると、そこには彼女が一人で座っていた。
「ごきげんよう、ジョアンナ様」
「ごきげんよう、マリアンヌ様。今日は、どういったご用件でしょう?」
「ええ……少し、ジョアンナ様にお話ししたいことがありまして」
そう言って、彼女は意味ありげに微笑んだ。
その表情を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(……何かしら)
「実は、ルカ様のことでございます」
「……ルカの?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「はい。どうしても、ジョアンナ様にお伝えしておきたいことがあるのです」
そう言うと、少しだけ間を置いた。
「……実は先日の夜のことでございます」
わざとらしく神妙な顔つきをして話し始める。
「……先日の夜、ですか?」
「ええ。我が伯爵家の客人用の宿泊施設に泊まった夜のことですわ」
彼女は胸元に手を当て、いかにも心苦しそうに、それでも顔には隠しようのない優越感を浮かべて言葉を続けた。
「あの日、ルカ様のお母様(クリスティアナ様)が突然そこに訪ねていらしたのです。現在はある伯爵様のお世話をなさっていて、近々その方とご結婚されるというお話のようで……」
(……クリスティアナ様が……?)
その名を聞いた瞬間、わたくしの背筋に冷たいものが走った。
かつてわたくしたちを傷つけ、侯爵家にある館から何も言わずに去っていった、ルカにとっての生みの親。思い出すことすら不快に感じる存在だ。
「急なことに、ルカ様は大変驚き、ショックを受けておられました。『母親の相談事を無下に突っぱねることもできず、かといって妻(ジョアンナ様)にこんな嫌な話を蒸し返して傷つけたくない』と……一人で深く悩んでおられたのですわ」
「……ルカが、そんなことを……」
「ええ。あまりに痛々しくて、私、一人苦しまれているルカ様を放っておけなくて……夜が明けるまで、ずっと寄り添ってお慰めいたしましたの。あのお優しいルカ様が、そこまで追い詰められていらっしゃるなんて、胸が締め付けられましたわ」
息を呑むわたくしの様子を見て、彼女は満足そうに口元を歪めた。
「ルカ様は『妻に余計なトラウマを思い出させたくないから、この夜のことは絶対に内緒にしてくれ』と、私に固く口止めなさいました。……でも、私はどうしても納得できませんでしたの」
「納得……?」
「ええ。ジョアンナ様は何も知らないまま、いつも通りルカ様と過ごしていらっしゃるのでしょう? だけど、ルカ様はその夜、あれほど苦しんでいらしたのです」
彼女は、心配そうに眉を寄せた。
「そんな大切なことを隠したままでは、お二人の間に本当の夫婦の信頼を築くことなどできないのではないかと思いましたの。ですから……たとえルカ様に叱られることになっても、ジョアンナ様にはお伝えした方がいいと思ったのです」
「……」
「それに……もし私が黙っていたら、ジョアンナ様は何も知らないままなのですもの。あまりにもお気の毒ですわ」
そしてチラリとわたくしを見る。
口元が笑っているように見えるのは決して気のせいではなかった。
「……私がジョアンナ様の立場でしたら、何も知らされないことの方が、ずっと辛いと思いますもの」
「……」
「でも、できればルカ様には黙っていてくださいね。もしジョアンナ様が『お母様のこと』を無理に問い詰めたりなさったら……ルカ様の『妻を守るための気遣い』がすべて無駄になり、守れなかったことでどれほど悲しまれるか」
哀れむような笑みで、彼女は優雅にお茶を口に含む。
あの日、ルカから漂っていた微かな香水の香り。その時と同じ香りを身につけた目の前の彼女。
帰宅してからの、あの気まずそうなよそよそしい態度。
すべてが繋がってしまい、わたくしは膝の上で固く拳を握りしめた。
問い詰めたい。本当のことを聞きたい。
だけど、彼がわたくしを傷つけまいと必死に隠したことを、直接問いただすことなんて……できるはずもなかった。
そんなわたくしの様子を満足気に眺めている彼女の口角が、またもほんの少しだけ上がった。
まるで、わたくしが苦しむ姿を見ることこそが、彼女にとって一番の目的だったかのように。




