第6話「隊長さんは、今日もお買い物」
王都警備隊本部。
昼下がりの執務室には、書類をめくる音と、時折聞こえる部下たちの足音が響いていた。
「隊長、こちらの巡回報告書に確認をお願いします」
「ああ。そこに置いてくれ」
ディアンは差し出された書類を受け取り、目を通した。
内容に問題がないことを確認し、必要な箇所に署名する。
いつもどおりの仕事。
いつもどおりの午後。
……のはずだった。
「隊長?」
「何だ」
「先ほどから、同じページを三回ほどご覧になっていますが」
部下の指摘に、ディアンの手が止まった。
「……そうか?」
「はい」
「気のせいだろう」
「はあ……」
部下は納得していない様子だったが、それ以上は追及せず、軽く頭を下げて退室した。
扉が閉まる。
静かになった執務室で、ディアンはペンを置いた。
そして、ふと思い出す。
紫がかった青い髪。
こちらを見上げた、あの瞳。
商品について説明するときの、楽しそうな声。
「…………」
ディアンは椅子の背もたれに身を預けた。
仕事に集中できないほどではない。
ただ、気がつくと彼女のことを考えている。
こんな経験は、初めてだった。
女性から好意を向けられることには慣れている。
食事に誘われることも、贈り物を渡されることもあった。
けれど、自分から誰かに会いに行きたいと思ったことは、ほとんどない。
「……厄介だな」
小さくつぶやく。
しかし、その声には、困惑だけではない何かが混じっていた。
机の端には、昨日購入した薬草茶が置かれている。
まだ封を開けていない。
ディアンはそれを手に取った。
「……そういえば」
ランは、森で育ったと言っていた。
薬草の扱いにも慣れているようだったし、説明も分かりやすかった。
あの店には、ほかにも商品があったはずだ。
植物の成長を助ける魔法道具。
香り袋。
ほかにも、気になるものがいくつかあった。
――別に、店の様子をもう一度確認するだけだ。
ディアンはそう結論づけ、立ち上がった。
自分自身に言い訳をしているような気がしたが、今は考えないことにした。
◇ ◇ ◇
その頃、フェリシアでは。
「……うーん」
ランが、カウンターの向こうで首を傾げていた。
目の前には、いくつかの小瓶が並んでいる。
中に入っているのは、乾燥させた薬草と花。
昨日、森から持ってきた材料を整理していたところ、思っていたよりも種類が少なくなっていることに気づいたのだ。
「このままだと、薬草茶が足りなくなってしまいますね……」
王都で仕入れることも考えたけれど、どこで買えばいいのか、まだよく分からない。
育ての両親は、森で採れる薬草を使っていた。
ランも森にいた頃は、必要なものを自分で採りに行けばよかった。
けれど、ここは王都だ。
薬草を扱う店がどこにあるのかも、どんな種類が流通しているのかも、まだ知らない。
「……今度、探しに行ってみましょう」
そうつぶやいたときだった。
カラン、カラン。
入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
顔を上げると、そこには見覚えのある黒髪の青年が立っていた。
「あっ……!」
ランの顔がぱっと明るくなる。
「ディアンさん!」
「……覚えていたのか」
「もちろんです! 昨日いらしてくださったお客様ですもの」
ランは嬉しそうに微笑んだ。
「また来てくださったんですね!」
「……ああ」
ディアンは、ほんの少しだけ目を細めた。
覚えていてくれた。
それだけのことが、思った以上に嬉しい。
「今日は何をお探しですか?」
「そうだな……」
ディアンは店内を見渡した。
正直に言えば、具体的に欲しいものがあったわけではない。
しかし、何も買わずに帰るつもりもなかった。
視線を巡らせ、棚に並ぶ小さな瓶に目を留める。
「これは何だ?」
「あっ、そちらは香り袋です」
ランはすぐに棚の前へ移動した。
「薬草や花を乾燥させて、香りが長持ちするように工夫しているんです。こちらは落ち着いた香りで、こちらは少し爽やかなんですよ」
小さな袋を二つ取り出し、ディアンに差し出す。
「よろしければ、比べてみてください」
ディアンは片方を受け取った。
柔らかな花の香りがする。
もう片方は、少し清涼感のある香りだった。
「……悪くないな」
「本当ですか?」
「ああ」
「よかったです!」
ランは、ほっとしたように笑った。
「香りは好みがありますから、気に入っていただけると嬉しいです」
その表情を見て、ディアンは内心で小さく息をついた。
――本当に、よく笑う。
しかも、その笑顔を向けられると、もう少し見ていたいと思ってしまう。
「……店主」
「はい?」
「お前は、こういうものを全部自分で作っているのか?」
「はい。薬草の選び方や組み合わせは、母から教わりました。魔法の扱い方は、父にもたくさん教えてもらったんです」
ランの声が、少し弾んだ。
「二人とも、とてもすごいんですよ。薬草のことなら何でも知っていますし、魔法も私よりずっと上手で……」
話しているうちに、ランの表情がますます明るくなる。
大切な人のことを話すのが、本当に好きなのだろう。
「……そうか」
ディアンは静かにうなずいた。
「いい師に恵まれたんだな」
「はい!」
ランは、迷いなく答えた。
「私の自慢の両親です」
その言葉には、飾り気がなかった。
ディアンは彼女を見つめた。
森で育ったこと。
王都に来たばかりであること。
まだ知らないことがたくさんあること。
それでも、こうして自分の仕事を始めようとしていること。
話を聞くほど、もっと知りたいと思ってしまう。
「……それで、今日はどちらを買う?」
ディアンは香り袋を二つ持ち上げた。
「えっ、あ……どちらも気に入ってくださったんですか?」
「そうだな」
「でしたら、こちらがおすすめです!」
ランは爽やかな香りの袋を指差した。
「ディアンさんは警備隊のお仕事で外を歩かれることが多いですよね。こちらは香りがすっきりしているので、気分を切り替えたいときにもいいと思います」
「……よく見ているな」
「はい?」
「いや。何でもない」
ディアンは、ほんの少し口元を緩めた。
「では、それをもらおう」
「ありがとうございます!」
ランは丁寧に商品を包み始めた。
その様子を見ながら、ディアンはふと、カウンターの隅に置かれた紙に気づいた。
そこには、いくつかの薬草の名前と、必要な材料の量が書かれている。
「……仕入れの予定か?」
「あっ、はい。薬草が少なくなってきたので、そろそろ買い足そうと思っているんです」
「仕入れ先は決まっているのか?」
「それが、まだなんです」
ランは少し困ったように笑った。
「王都には、薬草を扱うお店がたくさんあると思うのですけれど、どこへ行けばいいのか分からなくて……」
「……なるほど」
ディアンは少し考えた。
警備隊の仕事で、街の商店について把握しておくことは珍しくない。
薬草を扱う店も、いくつか知っている。
「商業区に、薬草を専門に扱う店がある。品質も悪くない」
「本当ですか?」
「ああ。場所を教えようか」
「ぜひお願いします!」
ランは身を乗り出すようにして、目を輝かせた。
「ありがとうございます、ディアンさん!」
その無邪気な反応に、ディアンは思わず笑いそうになった。
……なるほど。
この店主は、何かを教えてもらうことが好きなのだ。
そして、教えてもらったことを、きっとすぐに試してみたくなる。
「ただし」
「はい?」
「場所を教えたからといって、今日すぐに行こうとするなよ」
「……えっ」
ランの動きが止まった。
「なぜですか?」
「店はどうする」
「あっ……!」
ランは、はっとして店内を見回した。
そうだった。
今は営業時間中だ。
仕入れ先が気になって、つい夢中になってしまった。
「……すみません」
「謝る必要はない。気づいたならいい」
ディアンは落ち着いた声で言った。
「仕入れに行くなら、店を閉める時間を決めてからにしろ。商売をするなら、商品だけでなく、自分の時間も管理することだ」
「……はい。勉強になります」
ランは真剣な顔でうなずいた。
そして、すぐににこりと笑う。
「ディアンさんは、いろいろなことをご存じなのですね」
「仕事柄な」
「すごいです!」
「……そうか」
ディアンは視線を逸らした。
褒められることには慣れているはずなのに。
彼女のまっすぐな言葉は、どうにも調子が狂う。
しかも、本人にはまったく特別な意図がないらしい。
それがまた、妙に心地よかった。
◇ ◇ ◇
香り袋を購入したディアンは、店を出る前にもう一度店内を見渡した。
棚には、まだ空いている場所がいくつかある。
開店したばかりなのだから、当然だろう。
それでも、商品を一つひとつ丁寧に並べた跡が見える。
この店主は、きっとこれからも工夫を重ねていくのだろう。
「……店主」
「はい?」
「無理はするなよ」
ランは、きょとんとした。
「……無理、ですか?」
「開店したばかりだろう。慣れないことも多いはずだ」
ディアンは、静かに続けた。
「頑張るのはいい。だが、体を壊してまで働く必要はない」
ランは目を瞬かせた。
そして、ふわりと笑った。
「ありがとうございます。気をつけますね」
「……本当か?」
「はい!」
あまりにも迷いのない返事だった。
ディアンは、数秒ほど彼女を見つめた。
「……その返事は、少し信用できないな」
「えっ?」
「いや。何でもない」
彼は小さく息をつき、扉へ向かった。
「また来る」
「はい! お待ちしております!」
カラン、カラン。
鐘の音が響き、扉が閉まる。
ランは、しばらくその扉を見つめていた。
「……親切な方ですね」
仕入れ先まで教えてくれた。
仕事のことも心配してくれた。
王都に来たばかりの自分にとって、こういう人がいるのはとても心強い。
「次にいらしたら、お礼を言わなくては」
そうつぶやき、ランはカウンターへ戻った。
そして、先ほど教えてもらった薬草店の場所を忘れないよう、紙に書き留めた。
一方、店を離れたディアンは、通りを歩きながら小さな包みを見下ろしていた。
今日も、買ったものは一つ。
けれど、昨日よりも彼女のことを知ることができた。
名前だけではなく、好きなことや、仕事への思い。
育ててくれた両親を大切にしていること。
そして、自分のことになると、少しばかり無防備になること。
「……本当に、目が離せない」
ディアンは小さくつぶやいた。
まだ、彼女は何も知らない。
自分がどれほど彼女に惹かれているのかも。
これから、どれだけ店に足を運ぶことになるのかも。
けれど、急ぐつもりはなかった。
彼女の歩幅に合わせて、少しずつ距離を縮めればいい。
そう考えながら、ディアンは再び警備隊本部へと戻っていった。
お店の扉の向こうでは、ランが次のお客さんを迎える準備をしている。
小さなお店の日常は、今日も穏やかに続いていく。
そしてその日常の中に、少しずつ、黒髪の隊長の存在が溶け込み始めていた。




