第5話「小さな魔法雑貨店と、黒い瞳の隊長さん」
朝の光が、静かな通りを照らしていた。
ランは店の扉の前に立ち、両手をぎゅっと握りしめていた。
目の前には、昨日までなかったものがある。
深みのある木目の看板。
そこには、薬草の葉と小さな花が繊細に彫り込まれ、文字の周りには星のような模様が散りばめられている。
そして、中央には優しい字体で店名が刻まれていた。
――フェリシア。
日差しを受けた看板の端で、小さな魔法結晶が淡く光る。
「……素敵」
ランは思わずつぶやいた。
昨日、職人の工房で完成した看板を見せてもらったときも感動したけれど、実際に自分のお店に掲げられると、また違って見えた。
まるで、ずっと前からここにあったかのように、建物になじんでいる。
「本当に、ありがとうございます……」
看板を取り付けてくれたドワーフの職人は、腕を組んで満足そうにうなずいた。
「なあに、これくらい朝飯前だ。木もいいものだったしな」
「でも、こんなに素敵にしていただいて……」
「おいおい、店主がそんな顔してどうする。これから客を迎えるんだろう?」
ランは、はっと顔を上げた。
「……そうでした!」
今日は、開店の日だ。
その事実を思い出した途端、胸の奥がどきどきし始めた。
お客さんは来てくれるだろうか。
商品を気に入ってもらえるだろうか。
値段は高すぎないだろうか。
考え始めると、不安が次々に浮かんでくる。
そんなランを見て、職人は小さく笑った。
「最初からうまくやろうとしなくていい。まずは店を開けてみることだ」
「……はい」
「それにな。昨日、お前が話していたことを覚えているか?」
「昨日、ですか?」
「客に幸せを持って帰ってもらいたい、ってやつだ」
ランは目を瞬かせた。
そして、ゆっくりとうなずく。
「……はい。覚えています」
「なら、その気持ちを忘れなけりゃいい」
職人はそう言うと、軽く手を振って工房へ戻っていった。
ランは、その背中が通りの向こうへ消えるまで見送った。
それから、もう一度看板を見上げる。
「……頑張りますね」
小さくそう告げて、店の扉を開けた。
◇ ◇ ◇
店内は、昨日までとは少し違っていた。
商品を並べた棚には小さな値札がつき、カウンターの上には手書きの商品案内が置かれている。
入口の近くには、森から持ってきた薬草を飾った小瓶。
奥の棚には、魔法で淡く光る小さなランプや、植物の成長を助ける道具が並んでいた。
派手さはない。
けれど、木の香りと薬草の香りが混ざり合い、どこか落ち着く空間になっていた。
ランは店内をぐるりと見回した。
「……よし」
窓を開け、空気を入れ替える。
それから、入口の扉にかけてあった札を裏返した。
『CLOSED』から『OPEN』へ。
カラン、と小さな鐘が鳴る。
「……開店です」
誰に聞かせるでもなく、ランはつぶやいた。
しばらく、店内は静かだった。
通りを歩く人々は何人か店の前を通り過ぎたものの、看板を見上げるだけで入ってはこない。
ランはカウンターの内側で、そっと指を組んだ。
やっぱり、少し早かっただろうか。
まだ店の存在を知っている人も少ないのだから、仕方がないのかもしれない。
「……焦らず、ですね」
自分に言い聞かせる。
父も、最初から何でもうまくいくわけではないと言っていた。
それなら、まずは待ってみよう。
そう考え直した、そのときだった。
カラン、カラン。
入口の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
ランは顔を上げた。
そこに立っていたのは、買い物袋を持った女性だった。
年齢は三十代くらいだろうか。店内を珍しそうに見回している。
「新しくできたお店よね?」
「はい! 本日、開店いたしました」
「まあ、そうなの。薬草も扱っているの?」
「はい。薬草や薬草茶、それから、暮らしに使える魔法雑貨もございます」
女性は棚の前へ進み、香り袋を手に取った。
「これは?」
「森で採れた薬草と、香りのよい花を組み合わせたものです。寝る前や、気持ちを落ち着けたいときにおすすめしています」
「へえ、いい香りね」
女性は香り袋に鼻を近づけ、ふっと表情を和らげた。
「最近、少し寝つきが悪くてね。こういうものがあると嬉しいわ」
「そうなのですね」
ランは少し考えてから、別の小袋を取り出した。
「こちらは、香りが少し穏やかなものです。よろしければ、二つを比べてみてください」
「まあ、親切ね。ありがとう」
女性は二つの香りを確かめ、気に入ったものを一つ購入してくれた。
「また来るわね」
「ありがとうございます! お待ちしております」
女性が店を出ていく。
ランは、手の中に残った代金を見つめた。
初めてのお客さん。
初めて、自分のお店の商品を買ってくれた人。
その人が笑顔で帰ってくれた。
「……嬉しい」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
母の薬草店を手伝っていた頃も、お客さんが喜んでくれると嬉しかった。
けれど、自分で考えて、自分で用意した商品を喜んでもらえたことは、また特別だった。
「……もっと、頑張ろう」
ランは小さくうなずいた。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎる頃には、店に立ち寄る人が少しずつ増えていた。
香り袋を買う人。
薬草茶を試してみる人。
魔法ランプの仕組みについて尋ねる人。
森では当たり前だった薬草の使い方を説明すると、驚いた顔をされることもあった。
「へえ、そんな使い方があるのか」
「はい。森では、よくこうして使っていました」
「面白いな。今度、妻にも教えてやろう」
そんなやり取りを重ねるうちに、ランの緊張も少しずつほぐれていった。
ただ、夢中になりすぎてしまうのは、相変わらずだった。
「こちらの商品は、植物の根元に置いておくと、土の水分を調整してくれるんです。魔力を流しすぎると逆に植物が驚いてしまうので、少しずつ調整するのがこつで――」
「お嬢さん?」
「あっ、すみません! つい……」
気づけば、商品についてずいぶん長く説明してしまっていた。
お客さんは嫌な顔をするどころか、楽しそうに笑ってくれた。
「いやいや、いいんだ。好きなんだね、こういうものが」
「……はい!」
ランは嬉しそうにうなずいた。
好きなものの話をしていると、つい夢中になってしまう。
それは、森にいた頃から変わらないところだった。
◇ ◇ ◇
午後。
店の前を、黒い制服を着た男が歩いていた。
背が高く、姿勢に無駄がない。
漆黒の髪は右側をかき上げたように整えられ、青みがかった黒い瞳は、周囲の様子を静かに見渡している。
王都警備隊隊長、ディアン。
彼は巡回の途中、新しく店が開いたという報告を思い出し、足を止めた。
この通りは住宅も多い。
新しい店舗ができたなら、念のため様子を確認しておくのも仕事のうちだった。
ディアンは看板を見上げた。
薬草の葉と、小さな花。
淡く光る装飾。
その下に刻まれた店名。
「……フェリシア、か」
静かな響きの名前だった。
扉の向こうから、楽しそうな声が聞こえてくる。
「こちらは、森で採れた薬草を使っているんです。香りが少しずつ違うので、お好みに合わせて選んでいただけますよ」
柔らかな声。
ディアンは、ほんのわずかに視線を向けた。
仕事柄、店主の様子を確認するだけだ。
そう考えて扉を開ける。
カラン、と鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が響く。
ディアンは、入口から店内へ視線を移した。
木製の棚。
薬草の瓶。
淡く光る魔法雑貨。
そして、カウンターの向こうに立つ一人の少女。
紫がかった青い髪が、窓から差し込む光を受けて柔らかく輝いていた。
彼女は、来店した客に気づくと、にこりと微笑んだ。
その瞬間。
ディアンの足が、ほんのわずかに止まった。
紫がかった青い瞳。
長いまつ毛。
少し猫のような目元。
整った顔立ちはどこか大人びているのに、商品を紹介しようとする表情には、年相応の無邪気さがあった。
――綺麗だ。
そう思ったのは、ほんの一瞬。
けれど、その一瞬で十分だった。
ディアンは、自分が誰かの容姿にこれほど意識を引かれることなど、ほとんどなかったのを思い出した。
周囲から好意を向けられることには慣れている。
容姿を褒められることにも、特別な感情はない。
だが、目の前の少女からは、そんな意図を感じなかった。
彼女はただ、初めて来た客を迎えることが嬉しいといった様子で、こちらを見ていた。
「あの……お客様?」
不思議そうな声に、ディアンは我に返った。
「……失礼した」
「いえ! どうかなさいましたか?」
「いや。新しく店ができたと聞いてな。様子を見に来た」
「あっ、そうなのですね!」
少女は、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます。まだ開店したばかりで、至らないところもあると思いますが……」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「どうぞ、ゆっくりご覧になってくださいね」
ディアンは、少女を見つめた。
警戒心の薄い、まっすぐな笑顔。
相手が警備隊だと知っても、必要以上に怯える様子もない。
それどころか、こちらが商品に興味を持ってくれたことが嬉しいらしい。
「……店主の名前を聞いても?」
「はい。ランと申します」
「ラン、か」
ディアンは、その名を心の中で繰り返した。
「あなたは?」
「ディアンだ。王都警備隊の隊長を務めている」
「まあ……! 隊長さんなのですか?」
ランは驚いたように目を丸くした。
「では…初めまして、ディアンさん!」
その無邪気な反応に、ディアンはわずかに口元を緩めた。
「……ああ。初めまして」
そして、店内へと足を進めた。
カウンターの近くには、いくつかの薬草茶が並んでいる。
ディアンはそのうちの一つに目を向けた。
「これは?」
「薬草茶です。香りが穏やかで、食事のあとにも飲みやすいものですよ」
「甘いのか?」
「いいえ。こちらは甘みを加えていません。少しだけ、花のような香りがします」
「……なら、それを一つ」
「ありがとうございます!」
ランは嬉しそうに商品を包み始めた。
その様子を見ながら、ディアンは静かに息を吐いた。
ただ、店の様子を確認するつもりだった。
それだけだったはずなのに。
気づけば、もう少し話をしていたいと思っている。
商品について尋ねれば、彼女はきっと目を輝かせて説明してくれるだろう。
そんな姿を、もっと見てみたい。
「ディアンさん、こちらでよろしいでしょうか?」
「ああ。問題ない」
差し出された包みを受け取る。
指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
「……ありがとうございます。またいらしてくださいね」
ランは、いつものように笑った。
その笑顔を見たディアンは、静かに決めた。
――また来よう。
仕事のついででもいい。
何か買いたいものがあってもいい。
理由など、いくらでも作れる。
少なくとも、もう一度この店を訪れる理由はできた。
「……また来る」
「はい! お待ちしております」
ランは、最後まで笑顔で見送った。
扉が閉まる。
カラン、と鐘が鳴った。
ディアンは店を離れながら、手元の包みを見下ろした。
買ったのは薬草茶が一つ。
それだけなのに、妙に気分がいい。
「……参ったな」
誰にも聞こえないほど小さく、彼はつぶやいた。
一方、店の中では。
「……隊長さんって、格好いいですね」
ランが、ぽつりと感想を漏らしていた。
背が高くて、綺麗な目をしていて、声も落ち着いている。
きっと、警備隊でも頼りにされているのだろう。
「……お仕事、大変そうです」
そんなことを考えながら、ランは次のお客さんを迎える準備を始めた。
彼女は、まだ気づいていない。
今日、自分のお店にやってきた青年が、これから何度も店を訪れることになるのを。
そして、そのたびに少しずつ、自分にとって特別な存在になっていくことを。
小さな魔法雑貨店フェリシア。
その開店初日は、こうして穏やかに過ぎていった。




