第4話「幸せを運ぶ、小さな看板」
お店の名前を決めよう。
そう思って帰ってきたランだったが、いざ机に向かってみると、なかなかいい案が浮かばなかった。
「うーん……」
二階の小さな居間。
窓辺に置いた椅子に腰掛け、ランは机の上に広げた紙をじっと見つめていた。
紙には、思いつくままに書いた名前が並んでいる。
『森の薬草店』
『魔法と薬草のお店』
『小さな森の雑貨屋さん』
「……なんだか、しっくりきませんね」
どれも悪くはない。
けれど、どこか普通すぎる気がした。
せっかく自分で始めるお店なのだから、もう少し、自分らしい名前にしたい。
ランは頬に手を添えた。
森で暮らしていた頃、母の薬草店には決まった名前がなかった。
森のエルフたちは、ただ「薬草店」と呼んでいたし、訪れる人たちもそれで困ってはいなかった。
けれど、ここは王都だ。
さまざまな種族が暮らし、たくさんのお店が並んでいる。
そんな街の中で、自分のお店を見つけてもらうには、きっと名前が必要なのだろう。
「……難しいです」
ぽつりとつぶやいた、そのとき。
ふと、森を出る日のことが思い出された。
◇ ◇ ◇
出発の朝。
母は、ランの荷物を何度も確認していた。
「薬草の記録帳は持った?」
「はい」
「魔法道具は?」
「こちらに」
「お金は、すぐに取り出せるところへ入れておくのですよ」
「はい、お母さん」
何度も繰り返したやり取り。
その隣では、父が大きな荷物を背負い直していた。
「ラン、これも持っていきなさい」
そう言って差し出されたのは、小さな木箱だった。
中には、よく手入れされた薬草用の道具と、乾燥させた花や葉が入っていた。
「お父さん、こんなにたくさん……」
「王都には珍しいものがいくらでもあるだろう。お前が森で覚えたことが、誰かの役に立つかもしれない」
父は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「それに、困ったときは道具に頼ってもいい。全部を自分の魔法だけで何とかしようとするんじゃないぞ」
「……はい」
母も、ランの髪を優しく撫でた。
「あなたがどこにいても、あなたらしくいられること。それが一番大切なのですからね」
そして、最後に母が言った。
「ラン。あなたの名前をつけたときのこと、覚えていますか?」
「……赤ちゃんの頃のことですか?」
「ええ。もちろん、あなたは覚えていないでしょうけれど」
母は、少し懐かしそうに目を細めた。
「あなたが私たちのもとへ来たとき、この子の人生にもたくさんの幸福が訪れますように、と思ったのです」
父が、静かにうなずいた。
「お前が幸せになってくれれば、それでいい。お前の周りにも、幸せがたくさん集まるといいな」
ランは、二人の顔を見つめた。
自分を拾い、育て、魔法を教えてくれた人たち。
血のつながりがあるかどうかなんて、ランにとっては関係なかった。
この二人が、自分の大切な両親なのだ。
「……ありがとうございます」
そう言うと、母は優しく抱きしめてくれた。
「いってらっしゃい、ラン」
「いってきます!」
あの日、森の入口で振り返ったとき。
二人は、いつまでも手を振ってくれていた。
◇ ◇ ◇
「……そうでした」
ランは、はっと顔を上げた。
机の上に広げた紙を、もう一度見つめる。
幸福。
幸せが訪れること。
誰かが笑顔になること。
自分の名前に込められた願いを、お店にも込められたら。
「……幸せを運ぶ、お店」
小さく口にしてみる。
なんだか、いい気がした。
薬草や魔法雑貨を売るだけではなく、訪れた人が少しだけ元気になったり、困っていたことが解決したり。
帰るときに、来てよかったと思ってもらえるようなお店。
ランは、机の端に置いてあった新しい紙を引き寄せた。
そして、ゆっくりと文字を書いた。
『小さな森の魔法雑貨店 フェリシア』
「……フェリシア」
声に出して読んでみる。
柔らかくて、温かい響き。
幸せを運ぶという願いにぴったりの名前に思えた。
ランは、しばらくその文字を眺めていた。
やがて、頬がゆっくりと緩んでいく。
「うん。これがいいです」
ようやく決まった。
自分のお店の名前。
そう思うと、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ランは、昨日訪れた工房へ向かった。
扉を開けると、昨日と同じように金属を叩く音が響いている。
「おはようございます!」
「ん? おお、昨日のお嬢ちゃんか」
職人の男性が顔を上げた。
「店の名前は決まったか?」
「はい!」
ランは、少し誇らしげにうなずいた。
「フェリシア、という名前にしました」
「ほう。いい響きじゃねぇか」
「ありがとうございます。幸せが訪れるように、という願いを込めたんです」
男性は、ふむ、と顎の髭を撫でた。
「なるほどな。薬草や魔法雑貨を売るだけじゃなく、客にも幸せを持って帰ってもらいたいってわけか」
「……はい!」
「よし、気に入った。じゃあ、看板を作ろう」
職人は、工房の奥から何枚かの木板を持ってきた。
「材質はどうする? 雨に強い木材を使うか、それとも軽いものにするか」
「雨に強いものがいいです。できれば、長く使えるものが……」
「なら、こいつがいいな」
差し出されたのは、深みのある色合いの木板だった。
木目が美しく、表面は丁寧に磨かれている。
ランは、そっと指先で触れた。
「……きれい」
「いい木だろう。手入れをすりゃ、長く使える」
「はい。ぜひ、これでお願いします!」
それから二人は、看板の形や装飾について相談した。
ランが希望したのは、薬草の葉と、小さな花。
そして、その周囲に淡い光を散らすような模様だった。
「魔法の光は、夜になるとほのかに灯るようにできますか?」
「できるぞ。ただし、派手に光らせる必要はねぇだろう?」
「はい。静かで、優しい光がいいです」
「なら、魔力を込めた小さな結晶を埋め込もう。店の雰囲気にも合いそうだ」
職人は、木板に鉛筆で下書きを始めた。
薬草の葉がゆるやかに伸び、その間に小さな花が咲いている。
文字の周りには、星のような光の模様。
その姿を想像しただけで、ランは胸が弾んだ。
「……完成が楽しみです!」
「ははっ。そう言ってもらえると、こっちもやる気が出るってもんだ」
職人は豪快に笑った。
「明日の夕方には仕上げておく。それまで、店の準備を進めておきな」
「はい! ありがとうございます!」
ランは深々と頭を下げた。
◇ ◇ ◇
工房を出た帰り道。
ランは、通りの角にある小さな食堂の前で足を止めた。
窓から、湯気の立つ料理が運ばれていくのが見えた。
そういえば、昨日のパン屋さんにも、お礼を言いたかった。
店を紹介してくれたこと。
おすすめのパンが、とてもおいしかったこと。
ランは少し考えてから、食堂の隣にあるパン屋へ向かった。
「おはようございます!」
「あら、昨日の子じゃないか。パンは気に入ったかい?」
「はい! とってもおいしかったです!」
ランは満面の笑みで答えた。
「それで、昨日は道を教えてくださってありがとうございました。おかげで、素敵な職人さんに出会えました」
「まあまあ、そんなこと。大したことじゃないよ」
女性は嬉しそうに目を細めた。
「そうだ、今日は新しいパンが焼けているんだ。よかったら一つ持っていきな」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。開店準備で忙しいんだろう?」
「……どうして分かったんですか?」
「ふふっ。昨日、店を開くって話していたじゃないか」
「あっ……!」
ランは、少し恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます。大切にいただきますね」
パンを受け取り、店を出る。
包みの中からは、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
ランは、それを胸元に抱えた。
王都に来てから、まだほんの少ししか経っていない。
それなのに、もうこんなに優しくしてもらっている。
「……私も、誰かにこんなふうにできたらいいな」
ぽつりとつぶやいた。
自分のお店に来てくれた人にも、同じように温かい気持ちになってもらいたい。
そうすれば、いつかこの通りが、自分にとって森と同じくらい大切な場所になるかもしれない。
ランは、空を見上げた。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
開店まで、あと少し。
小さなお店『フェリシア』が、もうすぐ街の一角に誕生する。
その扉を、最初に開けるのはどんな人だろう。
ランは、期待に胸を膨らませながら、自分のお店へと歩いていった。
そのときの彼女は、まだ知らなかった。
明後日には、警備隊の制服を着た一人の竜人が、その扉をくぐることになるのを。
そして、その出会いが、彼女の日常を少しずつ変えていくことを。




