第3話「看板と、焼きたてのパンの香り」
翌朝。
窓から差し込む朝日と、どこからか聞こえてくる鳥の声で、ランは目を覚ました。
「……ん」
ゆっくりと目を開け、寝台の上で小さく伸びをする。
見慣れない天井。
知らない部屋。
そして、窓の外から聞こえてくる人々の話し声。
数秒ほどぼんやりしたあと、ランはぱちりと目を瞬かせた。
「……ああ、そうでした」
ここは王都。
昨日、森を離れてやってきたばかりの、自分の新しい家だ。
そう思った途端、眠気がどこかへ飛んでいった。
「今日も、やることがいっぱいです!」
勢いよく寝台から起き上がり、身支度を始める。
まずは朝ごはん。
次に、お店の開店準備。
そして、できれば今日中に看板も用意したい。
昨日のうちに店内の掃除は終わらせたけれど、まだ店名も看板も決まっていないのだ。
ランは身支度を済ませると、階段を下りて一階の店舗へ向かった。
昨日きれいに並べた商品を確認し、窓を開ける。
朝の空気が、店内にすっと流れ込んできた。
「……いい朝ですね」
遠くから、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
その瞬間、ランのお腹が、きゅう、と小さく鳴った。
「…………」
ランはお腹に手を当てた。
そういえば、昨日は片づけに夢中になって、夕食を簡単に済ませてしまったのだった。
「……朝ごはんにしましょう」
うん、と一人で頷く。
お店のことを考えるのも大切だけれど、ごはんも大切だ。
母にも、よく言われていた。
――ラン、食べることは元気の源ですよ。ーー
ランは鞄から小さなお財布を取り出すと、戸締まりを確認して外へ出た。
◇ ◇ ◇
通りを歩いてすぐ、焼きたてのパンの匂いが強くなった。
匂いをたどるように歩いていくと、木製の看板を掲げた小さな店が目に入った。
窓越しに見える棚には、丸いパンや細長いパン、砂糖をまぶした焼き菓子が並んでいる。
「わあ……!」
思わず足が止まった。
森の近くにもパンを焼く家はあったけれど、こんなに種類が多いお店は初めてだ。
しかも、店先には小さな魔道具が置かれている。
その上には、焼き上がったパンの絵が淡く光っていた。
どうやら、店内にある商品の種類を表示する魔道具らしい。
「パンの種類まで、魔法で……」
「おや、お客さんかい?」
声をかけられ、ランははっと顔を上げた。
店の奥から出てきたのは、ふっくらとした頬の女性だった。エプロンを身につけ、優しそうな目をしている。
「いらっしゃい。何をお探しだい?」
「ええと……」
ランは棚を見渡した。
どれもおいしそうで、なかなか決められない。
「あの、初めて来たので、おすすめを教えていただいてもいいですか?」
「もちろんさ!」
女性は嬉しそうに笑った。
「朝なら、この焼きたての丸パンがおすすめだよ。こっちは木の実入り。甘いのが好きなら、蜂蜜をかけたこっちもいいね」
「木の実……蜂蜜……」
ランの瞳が、きらきらと輝いた。
女性はその様子を見て、思わず笑みを深める。
「ふふっ。どれも食べてみたいって顔をしているね」
「……分かりますか?」
「そりゃあ、分かるとも」
ランは少し恥ずかしそうに頬を緩めた。
結局、木の実入りの丸パンと、蜂蜜をかけたパンを一つずつ買うことにした。
「ありがとうございます!」
「はいよ。またおいでね」
店を出たランは、さっそく丸パンをひと口かじった。
「……!」
外側はほんのり香ばしく、中はふんわり。
木の実の食感と、パンの優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「おいしい……!」
自然と頬が緩んだ。
こんなにおいしいパンを毎朝食べられるなんて、王都はなんて素敵なところなのだろう。
ランは残りのパンを大切に包み直した。
これは、あとでゆっくり食べよう。
そう決めて、再び通りを歩き始める。
今日は、看板を作ってくれる職人を探さなくては。
◇ ◇ ◇
パン屋の女性に教えてもらった通りを進むと、金属を叩く音が聞こえてきた。
カン、カン、カン。
規則正しい音が、工房の並ぶ一角に響いている。
その中の一軒に、木製の看板がいくつも立てかけられていた。
ランは足を止めた。
扉の横には、小さな文字でこう書かれている。
――看板・家具・生活道具。細工のご相談承ります。ーー
「ここでしょうか……?」
そっと中を覗く。
工房の奥では、小柄な男性が作業台に向かっていた。
年齢は分からないけれど、立派な髭を蓄え、腕まくりした服の袖からは、鍛えられた腕がのぞいている。
ランが入口で迷っていると、男性が顔を上げた。
「ん? 客か?」
「あっ、はい! 突然すみません」
「いいや。用件は?」
「看板を作っていただきたくて……」
「看板か。どんなもんが欲しい?」
男性は作業の手を止め、こちらへ歩いてきた。
近くで見ると、身長はランよりずっと低い。
けれど、その目には職人らしい鋭さと、どこか気さくな雰囲気があった。
「お店を開くんです。薬草や、魔法の雑貨を扱うお店で……」
「ほう。薬草と魔法雑貨ねぇ」
男性は顎の髭を撫でた。
「なら、何の店かひと目で分かる看板がいい。店の名前は?」
「……それが、まだ決まっていないんです」
「名前もまだか!」
男性は豪快に笑った。
「そりゃあ先に決めなきゃならんな。看板に文字を入れるんだからよ」
「そうですよね……」
ランはしゅんと肩を落とした。
店の準備に夢中で、肝心なことを後回しにしてしまっていた。
男性はそんなランを見て、少しだけ表情を和らげた。
「まあ、焦るな。店の名前なんてのは、そう簡単に決まるもんじゃねぇ。どんな店にしたいか、まずは聞かせてみな」
その言葉に、ランは顔を上げた。
「はい!」
ーーそして、ゆっくりと話し始めた。
森で育ての両親と暮らしていたこと。
両親が薬草店を営んでいて、自分も手伝っていたこと。
薬草の知識や魔法を生かして、王都の人たちにも喜んでもらえるお店にしたいこと。
男性は口を挟まず、最後まで話を聞いてくれた。
「なるほどなぁ。森育ちの薬草店主ってわけか」
「はい。まだ分からないことばかりですけれど……」
「分からないことがあるのは当たり前だ。最初から何でもできる奴なんていねぇよ」
男性は作業台の端に置かれた木片を手に取った。
「で、看板には何を描きたい?」
「えっと……薬草と、お花と……」
ランは少し考えた。
「できれば、魔法の光も入れたいです」
「欲張りだなぁ!」
「あっ、すみません。難しいでしょうか?」
「誰も難しいとは言ってねぇよ」
男性はにやりと笑った。
「面白そうじゃねぇか。せっかくだ、腕の見せどころってやつだ」
その言葉に、ランの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、店の名前が決まってからだ。名前が決まったら、また来な」
「はい! ありがとうございます!」
ランは深々と頭を下げた。
男性は照れくさそうに鼻を鳴らし、作業台へ戻っていく。
「それと、お嬢ちゃん」
「はい?」
「看板のことだけじゃねぇ。店を開くなら、近所の連中とも仲良くしとくんだぞ。困ったとき、助けてくれるのは案外そういう連中だからな」
ランはその言葉を、胸の中でそっと繰り返した。
「……はい。覚えておきます」
◇ ◇ ◇
工房を出たランは、通りの端にある小さなベンチに腰掛けた。
膝の上には、買ったばかりのパンの包み。
目の前には、行き交う人々。
王都に来て、まだ一日と少し。
それなのに、もう何人もの人と話をした。
パン屋の女性。
看板職人の男性。
馬車の御者。
誰もが、初めて来た自分に親切にしてくれた。
「……嬉しいな」
ぽつりとつぶやく。
森を出るときは、もちろん寂しかった。
両親と離れるのも、慣れ親しんだ森を離れるのも、簡単なことではなかった。
けれど、新しい場所には新しい出会いがある。
知らないことを教えてくれる人がいる。
そして、自分が誰かの役に立てる機会もある。
ランは、残っていたパンをひと口かじった。
「……おいしい」
思わず笑みがこぼれる。
ーーさて。
看板のためにも、まずは店の名前を決めなければ。
両親からもらった知識。
森で過ごした日々。
これから王都で出会う人たち。
その全部を大切にできる名前がいい。
ランは空を見上げた。
青い空の向こうには、今日も明るい日差しが広がっている。
「……よし」
小さく頷き、立ち上がった。
自分のお店は、まだ始まったばかり。
きっと、これからいろいろなことがある。
失敗もするだろうし、困ることもあるだろう。
ーーそれでも。
いつか、ここを訪れた人が笑顔になれるように。
ランは、静かな通りを自分のお店へ向かって歩き出した。
その小さな背中を、朝の光が優しく照らしていた。




