第2話「小さなお店と、新しい暮らし」
王都の門をくぐってから、どれくらい経っただろう。
馬車の窓から街並みを眺め続けていたランは、御者の声でようやく我に返った。
「お嬢さん、そろそろ目的地ですよ」
「あっ、はい!」
慌てて返事をしたものの、視線はついつい窓の外へ向いてしまう。
石畳の道を走る小さな乗り物。
建物の壁に埋め込まれた、淡く光る魔法石。
荷物を浮かせながら運ぶ人の姿まで見えた。
森では、重い荷物を運ぶときは台車を使うか、魔法で少し軽くするくらいだった。
それなのに、王都では荷物そのものがふわふわと浮いている。
「……すごいです」
「ははは。さっきから、そればかりですな」
「だって、本当にすごいんですもの!」
ランが頬を緩めると、御者は楽しそうに笑った。
「王都には、まだまだ面白いものがありますよ」
「本当ですか?」
「ええ。まあ、まずはご自分のお店を見てからですな」
その言葉に、ランははっとした。
そうだ。
今日から自分が暮らす場所。
そして、これから自分のお店になる場所。
考えただけで、胸がどきどきする。
馬車は大通りを離れ、少しずつ静かな通りへと入っていった。
賑やかな声が遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは、石畳を踏む足音や、どこかの家から漂う料理の香り。
通りの両側には小さな商店や住宅が並び、窓辺には花の鉢が飾られている。
森の中ほど静かではない。
けれど、王都の中心部に比べればずっと落ち着いているようだった。
「この辺りなら、ゆっくり商売ができるでしょう」
御者がそう言って、馬車を止めた。
「さあ、着きましたよ」
ランは鞄を抱え、そっと馬車から降りた。
そして、目の前の建物を見上げる。
「…………」
そこにあったのは、二階建ての小さな建物だった。
一階には木製の扉と大きな窓。
二階には住居らしい窓が二つ並んでいる。
壁の一部には蔦が伸び、屋根の端には少し古びた装飾が残っていた。
確かに、新築ではない。
ところどころ塗装が剥がれているし、扉も少し年季が入っている。
けれどーー
「……素敵」
ランの口から、ぽつりと言葉がこぼれた。
窓から差し込む光を想像する。
店内に棚を並べて、薬草の瓶を置いて、香り袋を吊るして。
二階の窓辺には、小さな鉢植えを並べよう。
夜になれば、月明かりが差し込む部屋でお茶を飲めるかもしれない。
そんな光景が、次々と頭に浮かんできた。
「気に入ったようで何よりですな」
「はい! とっても!」
ランは満面の笑みで答えた。
その笑顔を見て、御者はどこか安心したようにうなずいた。
「それでは、荷物を下ろしましょう」
「お願いします!」
荷物の中には、着替えや生活道具のほかに、薬草や魔法道具が詰まった箱もある。
御者と一緒にそれらを運び終えると、ランは丁寧にお礼を言った。
「ここまでありがとうございました」
「いえいえ。お嬢さんも、どうかお元気で」
馬車が去っていく。
その姿が通りの向こうへ消えるまで見送ってから、ランは改めて建物を振り返った。
今日から、ここが自分の家だ。
そして。
――自分のお店だ。
「……よしっ」
小さく気合いを入れ、ランは扉の鍵を開けた。
かちゃり、と小さな音がする。
扉を押すと、木の香りと、少しだけ埃っぽい空気が迎えてくれた。
「お邪魔します……?」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
自分の店なのに。
ランは一人でくすりと笑い、店内へ足を踏み入れた。
中は思っていたよりも広かった。
壁際には棚があり、窓の近くには小さなカウンターもある。
奥には裏口へ続く扉があり、階段は二階へと伸びていた。
ただし、棚には何も並んでいない。
床には薄く埃が積もり、窓ガラスも少し曇っている。
「……これは、お掃除からですね」
ランは袖をまくった。
それから、ふと気づいたように鞄を開ける。
中から取り出したのは、小さな布袋だった。
袋の中には、乾燥させた薬草が少しずつ入っている。
ランはそのうちの一つを取り出し、指先でそっとつまんだ。
「ええと……たしか、こうして……」
薬草を小さな器に入れ、指先に魔力を集める。
淡い光がふわりと灯った。
次の瞬間、薬草から柔らかな風が生まれ、床の埃を一か所へと集め始めた。
森で掃除をするときによく使っていた方法だ。
ただし、少しばかり魔力の調整が必要になる。
ランは集中して、風の流れを整えた。
ふわり、ふわり。
埃がまとまっていく。
ーーところが。
「……あれ?」
窓際に置いてあった古いカーテンが、風に煽られて大きく膨らんだ。
続いて、棚の隅に残っていた紙切れが舞い上がる。
「あっ、待ってください!」
紙切れはひらひらと宙を舞い、ランの頭の上を越えて、階段のほうへ飛んでいった。
ランは慌てて風を弱める。
ようやく風が収まったときには、床の埃はきれいにまとまっていたものの、カーテンは斜めに傾き、紙切れは二階へ続く階段の途中に引っかかっていた。
「…………」
ランは少し考えた。
「……森では、うまくいったのですけれど」
そうつぶやいてから、ふっと笑った。
ここは森ではない。
建物の形も、窓の大きさも、風の通り方も違うのだ。
きっと、ここに合った方法を見つければいい。
「次は、もう少し弱くしてみましょう」
ランはそう言って、再び薬草を手に取った。
こうして、王都での最初の掃除は、予定より少しだけ時間がかかったのだった。
◇ ◇ ◇
夕方になる頃には、店内は見違えるほどきれいになっていた。
床は磨かれ、窓から差し込む光が店内を明るく照らしている。
ランは棚の前に立ち、持ってきた品物を一つずつ並べ始めた。
薬草茶の瓶。
乾燥させた花を詰めた小袋。
植物の成長を助ける小さな魔法道具。
そして、母が作り方を教えてくれた、香り袋。
どれも派手な品ではない。
けれど、ランにとっては、一つひとつに思い出が詰まった大切な品物だった。
香り袋を手に取る。
ほのかに、森の花の香りがした。
『ラン。商品を作るときは、使う人のことを考えるのですよ』
母の声が、懐かしく思い出される。
『誰が、どんなときに使うのか。それを考えれば、自然と必要なものが見えてくるから』
ランは香り袋をそっと棚に戻した。
「……うん」
これから出会うお客さんは、どんな人たちだろう。
疲れている人。
植物を育てたい人。
大切な誰かに贈り物をしたい人。
もしかしたら、森では見たことのない悩みを抱えている人もいるかもしれない。
そんな人たちに、少しでも喜んでもらえるお店にしたい。
ランは棚を見渡し、満足そうに微笑んだ。
「明日も、頑張ろう」
そうして、ようやく二階へ上がることにした。
◇ ◇ ◇
二階の部屋は、思ったよりも居心地がよかった。
小さな寝室と居間、簡素な台所。
窓の外には、通りに並ぶ建物の屋根が見える。
ランは窓を開け、夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
森の夜とは違う。
虫の声も、葉擦れの音も少ない。
代わりに、遠くから人々の話し声が聞こえてくる。
少し不思議で、少し寂しい。
けれど、嫌いではなかった。
空を見上げると、雲の切れ間から月が顔を出していた。
ランは窓辺に腰掛け、鞄の中から一通の手紙を取り出した。
森を出る前、両親が持たせてくれたものだ。
『ランへ。
あなたが自分で選んだ道です。私たちは、あなたなら大丈夫だと信じています。
困ったときは、無理をせず、誰かに頼ることも忘れないでください。
あなたが笑顔で暮らせること。
それが、私たちの一番の願いです。
いつでも帰ってきていいのですからね。
お父さんとお母さんより』
読み終えたランは、手紙を胸に抱きしめた。
「……ありがとう、お父さん。お母さん」
少しだけ、目の奥が熱くなる。
寂しくないと言えば、嘘になる。
けれど、ここで暮らすと決めたのは自分だ。
きっと楽しいことも、難しいことも、たくさんあるだろう。
ーーそれでも。
「私のお店、素敵なお店にするからね」
月に向かって、そっと誓う。
その夜、ランは新しい寝台に潜り込んだ。
慣れない街の音を聞きながら、明日は何をしようかと考える。
看板も作らなくては。
商品の値段も決めなくては。
それから、近くのお店にも挨拶に行こう。
考えごとは尽きなかったけれど、いつしかランの瞼は重くなっていった。
明日から、いよいよ本格的に始まる王都での暮らし。
小さなお店の扉が開く日も、もうすぐそこまで来ていた。




