Pilgrimage-3
罅割れた夏の残響は偕老同穴の契りを唾棄するように青い空を穿ち、故障した僕の情緒を喰い破ってはまた波打つ。
夏の休みに忍び込んだ美術室、愚かしいほどの哀愁を纏うそこに規範は居らず、色とりどりの絵の具に汚れた水道だけが芸術を礼賛するみたいにこちらを見つめていた。
マークシートを塗りつぶすために鉛筆を握った君の右手が作り出すのは平準化された点描画。参考書の山に赤は見当たらず、君が目的もなくそれに没頭していることは明らかだった。
「どこ目指してるの?」
問いかけに反応はない。
君の指先は淡白な運動を続け、たった一つ、用意された答えに向かって走り続ける。
「憧れ」 というワーディングは、全て許す様な免罪符じゃない。
「マークシートの練習って、本質的じゃないと思うけどな」
安易な挑発も、君にはやっぱり無視される。
視線の彷徨い、無機質な、紙の擦れる音。なんて分かり易い、拒絶のサイン。
だらりと垂れた左腕からは死が香った。
「国立行くなら、二次の対策した方がよくない?」
執拗に話しかける僕に嫌気がしたのか、君は椅子を蹴とばすように立ち上がって、教室の扉に向かう。
置いて行かれた鉛筆は虚しく木製の床を叩き、その振動に世界は共鳴し、窓が怒るように激しく割れた。
世界が怒っている。僕の不義理について、だ。
「ねぇ、もう、ついてこないで」
漸く発された君の言葉は冷たく他人行儀で、
「僕、なにかした?」
失望した眼で僕を貫き背を向けた。
君を追うべきか分からなくて、横並びの蛇口を全て捻ると、そこに散らばったガラスの破片を集めた。
指を切る。赤い体液を透明に当てるとそれは薄まり、自己犠牲の水が優しく流れていった。
依然、罅割れた夏の空。遮るものを失った陽光が焦がすように僕を睨んでいる。
炎天下に、僕は秋を想った。
こんな夏は初めてだ。
休日の校庭、夕暮れの畦道、夏の海。
僕は君の跡を追うことに決めた。
噛んだ爪の跡みたいな浜辺に座っていた少女を見つけると、君は観念したようにこちらを見た。
「私、もう絵は描かないの。だから、君と話す理由もなくなった」
君は毒薬のような青鉛筆を胸ポケットから取り出して、それを波に攫わせる。
海の透明が、恨めしい青に染まった。
「勉強して、大学に行ってね。友達とオールとかして、偶に本を読んだり。先輩とかと付き合って、喧嘩もしてみたいな」
とびきりの笑顔が眩しくて、僕はそれを歪ませなければならないと悟った。
華奢なその体を浅瀬に押し倒すと、青の上に君が乗った。
「いいよ。今なら一緒に死んであげる。今、だけなら」
君は海の中で両手を広げて、僕を受け入れようとした。
その表情は明らかに死を求めており、潤んだ瞳は、愛の掻いた汗だ。
でも、それは救いじゃない。
死は――いつだって平等に、苦しみだ。
僕らがただ、その平等さに、誰しもに訪れる終焉に、身勝手な希望を抱いているだけで。
立ち惚ける。殆ど沈みかけた夕陽に海は解毒されて、赤く煌めいた。
「臆病者」
痺れを切らした君の言葉が響く。
そこで僕は平坦な浜辺が袋小路の墓地であったことに、はたと気がついた。
翼を持たない人間が飛ぶには、そこよりも低い場所が無ければならない。夏を遠ざけるには、記憶に蓋をするには、僕は落ちすぎていた。
希望の消えた世界は太りすぎてちょっとも飛べない。
夏が僕らを取り込もうとしている。その懐に、アオハルとかエモとか、全部、しまい込もうとしている。
振り返ったらあれも青春だったよな、とか、僕らもまだまだ若かったよな、とか。
なぁ、全部忘れてさ。
馬鹿みたいに海に浸かってさ。
どちらからともなく、何故か沖に上がってさ。
それで、将来、二人で笑うんだよ。
あの日があったから、今の僕らがあるんだよって?
このどうしようもない日々の傷口から溢れ出した灰色の夢。
失敗も恥じらいも全部、美しい思い出として語りあえたならそれはきっと――
「ダメだ。芸術家は誰よりも醜くないといけないから」
僕らは真面目で、勤勉で、正常な人間になりたいと、心の底で願いながら、どうしようもなく怠惰で、退嬰で、不条理な人間でなければならない。
誰よりも美しく成りたいと願いながら、獣よりも醜悪でなければならない。
誰よりも優しく在りたいと思いながら、鬼よりも非道でなければならない。
人並みの希望を抱いて、月並みの幸福を望んで、それら全てから裏切られなければならない。
なぁ、芸術を騙った不道徳者。お前に生きる価値なんてないんだからさ、せめて誰よりも申し訳なさそうに生きろよ。
「芸術なんていらない!」
ただ一人の人間で在りたいと、君は嘘を吐いた。
特別でなくてよいと、有象無象の中の一人でよいと、そう思える人間がこの世にいないことを、そう、誰もが知っているのに。
君の中の自己矛盾が、まだ透明なその涙が、圧倒的な夏を終わりへと誘って、罅割れた空が哄笑して――
夏が、崩れてゆく。




