Witches-5
紫が、血を流して転がっていた。
紅の体に損傷はなかったが、同じくその脇に転がって動かない。
白はまた、見当たらなかった。
ただ、これが彼女の番であることだけは確かだった。
僕は世界を歩いた、白の魔女を探して。
時間だけがやたらと余っているものだから、巡礼の反省をしながら。
僕らの出会いは殆ど不変だ。あの橋の上、欄干に腰掛けた君の姿はいつだって思い出せる。
あの日を忘れてしまうならそれ以外の全ての記憶を無くした方がマシだ。そう思えるほど、あれは決定的な記憶だった。
君の自画像。あれは、いつも場面が変わってしまう。
あの自画像を描いている最中の君に話しかけたことも、先生と話している君に話しかけたことも、両親にそれを見せている君に話しかけたこともあった。
でも、いつだって君はそれをやめない。君の涙はあの夏には既に青く染まっていて、無垢な透明なんて忘れてしまっている。
あの美術室を僕は知らない。
僕らはいつもショッピングモールのエスカレーターを行ったり来たりしながら、芸術家の名前を思い浮かんだ順からたちどころに批判しているはずだった。
違和感があった。巡礼の欲望が、時間の高潔が、どこにもなかった。
君は死を求めた。それも、僕と共に死ぬことを。
美との心中、心への殉死、魂の壊死。
あそこで死を選んでいたなら、どうだったろう。
それは幸せだったのかもしれない。死んだら、迷いなんてなくなってくれるかもしれない。苦しみなんて、なくなってくれるかもしれない。
ドン、と、何かにぶつかって、それを倒してしまった。
「やっと……わかって、くれた……?」
心配になるほど痩せこけた腕が、起き上がらせてくれと差し伸べられている。
白の魔女だった。
彼女の腕を取って引くと、ホットケーキのように軽い体がふわりと浮いて、白はそのまま僕の胸に収まった。
手を細い腕から離したら、信じられない握力で両手を掴まれ、自然と僕らは密着した。
「どうして……死ななかったの……?」
白の魔女は耳を澄まさないと聞こえないような小さな声を、僕の胸元から送る。
「それじゃ、あの子を救うことにならないんだ」
僕が言うと、魔女はゆっくりと顔を上げて、死んだような白い瞳で僕を見て、それから、素早く耳元に唇を押し当てて、囁いた。
「死は救いだよ」
どんなか細い声でも聞き逃さないよう準備していた耳は、突然与えられた明瞭な音に無意識に集中する。
甘ったるいその声は脳味噌の隅々に行き渡り、その細胞の一つ一つを溶かし、思考を停止させ、足腰のどこからも力が抜けて、僕は後ろ向きに倒れた。
両手は魔女に捕らえられているから、受け身さえ取らせて貰えない。
後頭部を激しく地面にぶつけると、いよいよ体に力は入れられなくなった。
控えめな胸部が僕の胸に押し当てられ、艶めかしい舌が頬の汗を舐めとる。
されるがままの僕に彼女はクスクスと笑い、その悪戯っぽい可愛らしさに、胸が締め付けられるようだ。
腹部にのしかかった白はそれを分かったように僕とじっとり目を合わせ、その柔らかく暖かい唇の先をまた、右の耳元に近づけて、
「一緒に死のう?」
と、囁いた。
頭の中から彼女の声が離れない。忘れようとしても、眼前に差し迫るその姿が強制的にそれらを想起させ、目を瞑っても、肉体に当てつけられた魔女の体温、バニラのような甘い香りが僕の意識を逃がさない。
いつの間にか指は執拗なまでに強く絡まっており、跨った魔女の両足は僕の太ももから足首にかけて蔦のように巻き付いている。
腰まで伸びた純白の髪が脇の下をくすぐり、その感触で自らの衣服が喪失していることに気付いた。
白の魔女はまた耳元から唇を離し、毛穴さえ見えるほど顔を近づけて、僕の瞳を覗き込む。
ツンとした高い鼻、人形のように丸い瞳、美しくカールした長い睫毛。
全てを受け入れてくれそうな優しい表情に、じわじわと心が取り込まれる。
僕は何か言おうとしたが、口を何度か開閉するだけで、上手く言葉が出てこない。
ゆっくりと、確実に、僕の体は蹂躙される体勢を整えていて、なのに、それが狂おしいほど心地よい。
白は愛おしそうな魔性の笑みを浮かべ、今度は左の耳元に、甘い吐息を注ぎ込む。
「一緒に、死のう?」
何も考えることなどできないが、理性の代わりに、獲物が本能的に逃げるのに近い根源的な戸惑いだけが残っていた。
だから魔女は、柔らかく粘っこい舌をまた執拗に額のあたりへ這わせて、迷いのような僕の汗を一滴一滴、彼女の唾液で上書きしてゆく。
もどかしいマーキングが繰り返され、一切の抵抗力を失った僕の半開きの口に、とうとう白の舌が捻じ込まれる。
反射的に逃げようとした僕を追い詰めるように、両腕、両足、肩、胸、腰、全身に、華奢な体からは想像もできないほどの体重が加えられ、身動きの一つもさせては貰えない。
畳み掛けるように、あの慈愛に満ちたねちっこい舌先は歯茎、歯の裏、口蓋、普段は意識しない部位のスイッチを丁寧に押して回り、遂には無防備な僕のベロに優しくキスすると、突如、捕食するように本性を剝き出しにし、抱きつき、絡まり、咀嚼した。
自らの味をこれほどかと言うほど堪能されながら、僕は、死んでしまった方がよいと、素直に思った。
今、死んでしまったら、それはきっと、幸せだった。
「一緒に死のう?一緒に死のう?一緒に死のう?一緒に死のう?一緒に死のう?一緒に死のう?一緒に死のう?」
脳内には魔女の甘美な魔法が反響し続ける。
僕の脳味噌は彼女の吐息に、声音に、体温に、舌に、犯されている。
次第に、絡まる指の力が、高鳴る心臓の拍動が、熱く滾るこの渇望が、どちらのものであるのかも、分からなくなって。
そのとき、僕は白を、美しいと思った。白を、愛しいと思った。白が、好きだと思った。
欲望も、高潔も、博愛も、救済も、どれも、要らないと思った。
だから、遠くで紅の魔女が立ち上がった。
僕の視線は本来見えるはずもない遼遠に伸び、それに気づいた白がそちらを振り返り、自然と僕を拘束する力も弱まった。
「どうして……」
白の魔女は静かに、しかし力強く呟いた。
怨嗟の声のように響くその声は、奪われた僕の理性を取り戻すのに充分なものだった。
「僕だって、死ねるものなら死にたいよ」
綿毛のように軽い白の体を僕は持ち上げ、立ち上がると、紅の方に向けて歩いた。
白の魔女は絶望したように崩れ落ち、そのまま、灰になって消えてゆく。
魔女の死ぬ瞬間を見たのは初めてだった。
遺灰は灰色と呼ぶには白く、白と呼ぶには柔らかい。
白――希望の色。
僕は、許されたいんだ。ただ、生きていることを。
世界がまた、青に呑まれた。
夏は、遠い。




