Pilgrimage-4
遠い蝉時雨は終わりかけた夏の断末魔、梲が上がらない僕らの生を捧げたくなるような夜に僕はいた。
怖いもの知らずな君は夜の山を調子よく登る。
灯りの無い山道、いつ死んだっておかしくはなかった。
木々のざわめきが明晰夢なんかよりもずっと写実的で、悪寒がした。
「あ、お地蔵さんだ」
少し先で君の声がした。
覚えている。
台座から落ちた地蔵、苔に塗れたそのシルエットは記憶の中と寸分の違いもない。
その姿に、僕は夏を想起する。
これは明らかにあの夏だ。君という芸術家の死んだ、美しいあの夏。
君が地蔵を起こし、汚れを払うのを見ながら、僕は嘗てなかったこの違和感の正体を探していた。
「ねぇ、どこまで行く?」
僕は喋れない。あの日もそうだった。
なのに、君は全てを知っているようにズカズカと進んで行くんだ。
これは巡礼ではないのだろうか。これは妄想ではないのだろうか。
地蔵を観察してみたが、何も変化はなかった。
デウス・エクス・マキナは実在しない。
これが神や仏の悪戯でないことは、僕にとって救いだった。
或いは僕はもう地獄に落ちているのかもしれない。
やがて、天然の岩屋を誂え向きだと喜んだ君は、儀式を始めた。
無抵抗こそが人生であると考えたのは、あの日の僕か、今の僕か。
それすら分からないほど、僕は朦朧としていたのだと思う。
「私はね、今日、死ぬの」
君は人差し指を突き立て、その腹をこちらに向けた。
僕は食い入るようにそれを見つめ、呆然と、漫然と、立っている。
次に君は銀に閃くナイフを取り出して、それをやはり、僕に向けた。
「止めるなら、今だよ。今、だけだよ?」
君は僕に今を突き付ける。今だけがこの世界であるのだと、君は盲信していた。
今の皮を被ったナイフは、まだ、綺麗だ。
僕はあの日、どうしたんだっけ。
君を止めようとしたんだっけ。君を救うような言葉を掛けたんだっけ。君を守るような笑顔を向けたんだっけ。
大自然の内、岩の俎上に載せた君の人差し指を抉るナイフが、走馬灯のようにゆっくりと動くのを。
僕は多分、あの日と同じようにただ、泰然と眺めた。
毅然とした君の表情が苦悶に歪む。
それを完全に喪えると、君は見せたことの無いような豪快な笑みを浮かべ、大きな笑い声をあげながら、岩屋を飛び出し、月光に舞った。
燦然と散る鮮血が夏に咲いた線香花火みたいだとか言ったら、それはきっと陳腐だ。
「なんで泣いてるの?」
君に言われて、僕は初めて自分が涙を流していることに気がついた。
双眸から溢れた透明を、人差し指の喪われた君の左手が、拭おうとして、垂れた体液が、それを赤く彩った。
沈痛なその赤が仮想でないならば。静謐なこの墓場が現実であるならば。
巡礼とはいかにも、魔法だ。
弾けるように世界が移り変わる。
タイムトラベル時間の遡行、トランジション場面の転換。連載打ち切り廃仏毀釈、口座凍結一斉停電阪神淡路大震災。
フィジックスの神を蔑んだアートの悪魔が、時空間なんて幻想を打ち砕く。
夏の罅が拡がる。
拡がって、拡がって。
このまま夏が壊れたら、僕はまた、現実に帰らなければならない。
過去――現在――未来
そんな単純に世界を分割したくなどない。
無意識と脱構築に支配されたくなんてない。
創ることが、生み出すことが、僕らを救ってくれるのであれば。叫びを上げることが僕らを許してくれるのであれば。
これは巡礼だ。これは回想だ。ありもしない過去の捏造で、浪漫が欲しいだけの、臆病な僕の妄想だ。
全部、全部、消えてくれればいい。今すぐ、僕を奪ってくれればいい。
仮想世界で火葬手配でもしてくれよ。
「「「駄目だよ」」」
夏と、君と、それは紫の――声が重なった。
夏はまだ、あと少し――
終わらない。
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