Wanderer
闇に慣れた瞳孔は浴槽の外に広がった暗がりを逍遥し、そこに確実に存在する物体を見分けられるようになっていた。
どれほどの時間、水底に沈んでいただろう。指標もなく、知りたいとも思わなかったが、息苦しさとそれに伴った頭痛が侵入者を裁くように酷く身を蝕んでいた。それらを諫めるように浴槽の角に肘を置き、茹だった頭を満足な五指で支えると、輪郭の曖昧な暗闇を睨む。
もうずっと掃除していない換気扇、身の丈に合わない大きな平面鏡、出番のない蛇口と引っ張りだこの給湯器。ボディソープにシャンプーと、リンスの置かれた棚の端、やはり主張の強いあのナイフの切っ先。荒い呼吸の合間に薄らと蝉の鳴き声の聞こえてきて、窓を開けたままだったろうかと確認するも杞憂に終わった。陶磁器のような白い壁はすっかり乾き水滴の一つも見えない。代わりに床は妙に湿っていて、視線を上げれば、閉めの甘かったシャワーから断続的な水滴が落ちている。自身の髪先からも同様に、垂れた雫が不規則な水音を繰り返す。その都度浴槽に浮かぶ無数の波紋、その皺さえ処理する自らの夜目に感嘆していると、頭が少しずつ冴えてくるように思われた。
視覚的な世界、微細な記述。世界をこんな風に捉えることが視覚障碍者に対する差別となるならば、僕は健常者であることを彼らに謝罪しよう。
無限の想像力が狭い浴槽の内側に潜んでいるのに、僕らはどうしてそこから這い出ては、あまりに現実的な現実と向き合わなければならないのだろう。立派に生きることが現実を仮想することでないのならば、線で象られた虚構に欲情することでないのならば、それは健常という暴力に手を染めることに他ならない。
生きたいように生きることが自らの首を絞めることでないのなら、この世界に生きる意味なんてないのだ。
そこから生まれるものが――あぁ、また僕は芸術に縋ろうとしている。黄の魔女は今頃悪態を吐きながら浴槽の底でその腐臭を漂わせているのだろう。
勿論、そんなものは妄想だ。
魔女というのは僕の作り出した妄想の産物で、君という第三者はありもしない記憶の捏造で、この文章はそれを陳腐な表現と豪快なストーリーラインで纏めたもので。
この章も、メタ的な視点に立つことを優位とする現代人を皮肉るような思惑のもとに、酒を呑みすぎた僕の書いた妄想に過ぎない。
全部くだらないよな。こんなこと書いてても、売れねえよな。これを称賛するような人間は所詮――それを書けないのが僕の臆病たる所以だ。
「妄想側においでよ、痛くても泣かないでよ」
あれほど切実であった君への気持ちはどれも嘘みたいに霧散して、僕は湯を抜かず、そのまま風呂を出た。時刻は丑三つ時を少し回った頃で、点けっぱなしのPC、メールボックスには担当編集からのお叱りメールが増えている。
パジャマに袖を通しながらそれを開いた。どんなに辛辣なメッセージであると分かっていても目を通すのが僕の長所だ。短所は、それに返信はしないことだろうか。
来月号に掲載する連載小説の最新話が完成していないのは僕の過失であったが、そもそも作品というものを定期的に発表しなければならないシステムにも欠陥がある。
それこそ、人々が芸術と称するソレは、そんな形式で生まれる代物ではないはずだ。
ただ、それはそれとして、たかが言語を連ねることの多少お上手なだけの社会不適合者がこうしてマンションの一室、不自由なく冷房と扇風機に涼みながら電灯に照らされ、缶コーヒーを恣に胃に注ぎ込めているのは、代わりに働き、文章を作品という形に包装し、更には金に換えている彼らの尽力によるものであることは認めなければならない。
そして、小説家に限らず世のクリエイターを名乗る有象無象の、なんと非生産的で余剰的な生き様であるのかを、いつか誰かが一本の映画にでも収めてくれればよい。そのための素材提供であれば、僕はいくらでも協力したかった。
無論、それを創る誰もがまた、益体もない資源の浪費者であるのだが。
創造主の氾濫は世界に自由をもたらし、民主化された芸術は差異を貪り、奇を衒った奴らのアルスに飲み込まれて消えていく。
信念なんて、自意識を導くための道具に過ぎない。酷薄な情報社会は人々から心を、延いては自己同一性を剥奪し、また、金融経済を支配した見えざる手が、文字通り手を変え品を変えては、人々をその手中に収めようと働いている。
「三秒間で君を奪いに行くよ、リアルを壊しに行くよ」
一般にモチベーションと呼ばれるような幻想が一向に湧いてこず、仕方がないのであらゆる自らの怠惰をその幻想の責任としてなすりつけると、ペンネームを検索欄に打ち込んで暇を潰した。
『新進気鋭、デビュー作で○○賞受賞』
『文学界を震撼させるあの作家の出身高校はまさかの○○高校』
『若者の心を掴んで離さないあの作家の私生活とは!? 秘密の○○部屋も公開!』
続々と表示されるのは安っぽい売り文句の数々。
記される社会的価値、僕は優れた人間なのではなく、社会が僕を優れた人間にしたがる。
作家の経歴や私生活がどれほど作品と関係するだろうか。それらは寧ろ作品を享受する人間の偏見ばかりを高めやしないだろうか。障碍者の書いた障碍について、若者の書いたユースカルチャーについて、外国籍の書いた国際性について。それらを称賛し、そこに時代性を求める態度が、どれほど芸術の価値を保障できるだろうか。
かと言って普遍を追求し、その実それが特殊なものであることに僕が無自覚であるとでも思うか? 理想論に憑りつかれて、哲学風な言葉遊びに終始する現実に目を背けていると思うか?
自覚性という一面において、自らの逸脱性のみに視線を向ける甘えたより、僕はよほどマシだという自覚がある。
ただ、僕はあまりに臆病で、そうして排除される単数と複数のどちらにも結論を出せないでいるのだ。
大衆の声の多くは僕を讃えるが、本能だろうか、視線はほんの一部の酷評、人格否定に奪われる。
「何を言いたいのか分からなかった」「○○卒とは思えない展開力の無さ」「量産型の凡才って感じ」「まるで子どものエッセイ」「単純に面白くない」「」「」「」「」「」「」「」
それは素直な感想なんだろう。他者の言葉を理解したと思い込む馬鹿より余程マシであろうとは、作者の言い分ではないかもしれないが。
芸術、創作、小説、物語。
それらが何のために存在するかとか、この時代において改まって問うのは、やはりあまりにも粗末であった。
ただそれと存在する何か、それが、こんなにも苦しい。
「この作品に救われました」
その人物は僕のデビュー作を挙げて誇張臭い妄言を連ねていた。
指先がアカウントのプロフィールを開く。
『人間。高校生。音楽、読書、たまにポケモン。よく霊圧が消える』
人を紹介するにはあまりに質素だと思った。だからこそ、この人間はこの国のどこかに確かに生きているのだと思った。
その人物の呟きの頻度は乱雑で、一日に何度も呟くこともあれば、数週間音沙汰のないこともあった。
そして、僕の後にデビューした作家の小説を絶賛していた。今まで読んできた小説の中で一番好き、って。
あぁ、そんなもんだよ。
お前らの言う、救われた、これのお陰で生きていられる、なんて言葉の重みはその程度だよ。
自分の不出来を障害や環境や遺伝のせいにしてさ、キャピタリズムがどうだ、ルッキズムがどうだ、フェミニズムがどうだって、感情論しか言えねえの。なんだ、働き方改革、男女共同参画、持続可能な社会の刺客?
欺瞞だよ、欺瞞。お前ら全員どうせ僕より馬鹿なんだからさ。教養も思考力もねえのに一丁前に世の中語ってんじゃねえよ、そういうの、負け犬の遠吠えって言うんだぜ?
脳味噌足りてねえ奴に限って、碌な謙虚さも持ち合わせず自らの権利ばかり主張して文句垂れて。生きててすみませんの一言も謝れないで何様だよ。
僕の小説に救われたいなら、僕の文章だけ読んでろよ。僕の人格を崇めたいなら、僕だけを賞賛しろよ。
僕だけを求めろ。僕だけを褒めろ。僕だけを信じろ。僕だけを愛しろ。
そしたら、僕はお前らを救ってやれるのに。
「奪いたい、君のココロも」
きっと誰も本当の救済を求めてなんていない。せいぜい、酷薄な現実を忘れさせる仮想の麻薬を欲しがっているだけだ。
僕は追い焚きのボタンを押して、また、服を取り払って。
42℃、魔女たちがまた僕の巡礼を待っている。
救えなかった君の号哭に耳を塞いで、夏の終わりへ会いにゆこう。




