Pilgrimage-2
旱魃に、熱疲労に、やけに昂揚してなんだってできる気のする阿片的な夏の病に、人々の侵されないようゲリラ豪雨は街は守る。
だけど僕はそれに感謝なんてできなくって、美術館の休憩所、その窓から聞こえる白けた雨の音を聞いていた。空は青く曇って、雲一つない宙空を雨粒が舞っている。
散弾銃と閃光弾、偏執認識現代病、天誅神力演大光。
キャプションのない美術館があったならどれほど素晴らしいだろう。時代なんて名ばかりの虚妄、大人達の凝った理想、脈絡のない複雑性や達観した皮肉さえ轢き殺し。そしたら、生まれてきてくれてありがとうって、僕は自分に言える気がするんだ。
「戻ってきたんだね。もう、来ないと思ってた」
気づけば君は隣に立って、恨めしく天を見上げていた。
「君を、救わなくちゃいけないから」
打ち付ける雨を僕は眺めながら、回想の回想、くだらないアイオーン。
君はいつも赤かった。
君の描く絵は夜を田園に差し込む茜のように優しく、血を流すように痛切で、排他思想に狂った警告のように激しくて、日に咲く撫子のように繊細で、やっぱり血痕のように痛ましい。
僕は傷口から漏れ出す液を舌で優しく愛撫して、正常なふりをして。
そうすることが、愛することだと思っていた。
あの日、君は画用紙を抱えていた。美術の時間に描いた自画像を持ち帰っていたんだ。
君の両親は多忙で行事に来ない。だから君はスクールバッグに収まらないそれを必死に抱えていた。
両親に見せなければならない。それだけのことが、君にとってどれほど重大であるのか。
それは自らの性に苦しむ多数の人々のように、君もまた苦しんでいた。
「私ね、涙を青で塗ったの」
君の自画像は泣いていた。そして、肌色の上に塗られたその涙は確かに青かった。
「私の涙、本当は、透明なのに」
先生が、塗り残しがあるよ、って教えてくれたの。
文化祭には親御さんも来るから、ちゃんとしなさい、って注意されて。
だからね、私、初めて右手で筆を握ったんだよ。
「肌色って、気味の悪い名前。血管の中にはみんな、赤を飼っているのにね」
その切実が僕は悲しくって、君の黒い髪に触れようとして、思い留まって、
「ピカソのさ。青の時代、って知ってる?」
なんて、また、逃げたんだ。
君の流す涙は確かに透明で、その美しい雫には泣きそうな僕の顔が映っていた。
「今、何を考えてたの?」
僕を見つめる君の瞳は少し茶色がかった濁りのないものであるはずだ。
なのに、それは酷く青い醜悪を携えているような気がした。
「将来のことを考えていたんだ」
過去を振り返ることが今の僕に必要であるならば、それは未来に思いを馳せることに相違ない。
嘗ての栄光に、清らかな成功体験に、無様にも縋りつくことのなにが悪い?
それは誇るべき心の支えだった。
「そっか」
君はいつになく素っ気ない態度で窓の縁に身を乗り出して、やっぱりじっと、こちらを見つめる。
「あの絵のこと。後悔、してる?」
してない。
食い気味に呟いた君の声は雷鳴のように震えていて、稲妻が大地から空へと伸びていって、最後に空が黄色く光る。
眩い黄金が世界を狂わせる。左回りの秒針が、僕らの矛盾を嘲笑う。
君は苛立ったみたいに左手で赤の鉛筆を握りしめて、人殺しのような眼で僕を睨んで、その銃口を僕に向けた。
「ねぇ、この先どうするの。生きていけるの? 愛し合っていけるの? 芸術なんて腹の足しにもならない。君が必死に働いて、私を一生養っていくんだって、約束してくれたって、どんな大学に行って、どんな企業に勤めて、独立して、大富豪になって! それで、なにが変わるの。私、なんにも救われない。私、あの日から、ずっと、青いの。青くなって、しまったの。青がずっと頭の中に流れ込んできて、どれだけ頑張ったってしょうがない! いつか死ぬなら、私……」
世界は残酷だと思う。だって、いつも君を泣かせる。
「私、青を知らないまま死にたかった」
尖った鉛筆の切っ先、憎悪に塗れた赤は、君の左腕を融かす。
アレグロ・アジテート、弾丸が僕をまた撃ち抜いて、窓から突き落とす。
青に吸われ天へと昇る雨粒たちに逆行して、僕は落ちる。
僕は君に謝らなければならない。でも、なにを謝ればいいのか分からない。
君を救えなくて。君を守れなくて。君のことを分かってあげられなくて。
でもさ、救うってなんだろう。
君が救いを求めていないならば、君が生を疎んでいるならば、僕が死を恐れているならば、あぁ――
夏が遠ざかってゆく。




