Witches-2
「君には少し優しさが足りない、のかもしれないね」
黒の魔女が言った。
紫と紅は近くで談笑していて、黄は離れたところで腕を組んだまま、やっぱり興味がなさそうに遠く、果てのない世界の果てを見つめている。
白は見当たらないけれど、それもいつものことだ。
「仕方ないじゃないか。僕、恋愛経験なんてないんだよ」
黒と話していると、僕は自分が惨めで仕方ない気持ちになる。
「そっか。まぁでも、恋に正解なんてないもんね」
その慈しむような笑みを、寄り添うような声を、浴びせないでくれ。
ずっとそれに浸っていたいような凶器を優しさと呼ぶのなら、やはり僕は優しくなんてなれない。
彼女は無自覚にそれを与え、だからこそやっぱり、惨めな気持ちがとめどなく湧き上がるのだ。
「僕が優しければ、彼女を救えた?」
惨めさの殻に閉じこもりながら、ひどく狡い問いを投げる。
彼女は艶のある茶髪を数度掻いて、困ったように傍で遊ぶ二人に話しかけた。
「君たちはどう思う?」
紫が冗談めかして笑う。
「難しいなぁ。でも、もう死んじゃってるからね、結果論に頼ってもどうせ過去のことだし、意味なくない?」
紅はいつもと変わらない真面目な顔つきで、考え込む素振りを見せる。
「難しいと、思います。優しさって、難しいですから。でも、今から優しくなるのでも遅くないんじゃないですか?」
僕は紫の渡した水を少し口に含んで、それを返す。
黒が二人の横に座ったので、僕も円を組むように胡坐をかいた。
「子どもの頃にさ、エンデを読んだんだ。もうちょっと大きくなって、今度はヘッセが好きになった」
誰にも話したことのないような記憶が、優しさに拐されて漏れてゆく。
「決してませてた訳じゃないよ。都会のトム&ソーヤとか、僕らの七日間戦争とかも読んでた」
黒はアルカイックに微笑んで、こちらを見ていた。
「そういうの読んで、想像するのが楽しかったんだ。想像の中で僕は行動力があって、機転が利いて、時々失敗するんだけど、そんなときには友達が助けてくれるんだ。想像の中で僕は何者にだってなれた。想像って、小説って、魔法みたいだな、って思ったんだ」
「それで、優しくなりたいと思ったの?」
そうかもしれない、と僕は思った。
でも、それだって後付けの結果論に過ぎない気がした。
志望動機とか、研究計画とか、それって、本当に僕の感情なんだろうか。
「エスカレーターで高校に上がってすぐの夏、突然、死にたくなった。理由はよく分からない。ただ、生きていることがどうしようもなく無意味で、無価値で、無駄だと思ったんだ」
黒が煙草を一本寄越した。僕は煙草を吸わないが、気づけばそれには火が点いていた。
「でも、同じくらい死ぬのが怖かった。死んだらきっと僕は無になる。無。それが、一番怖かった」
黙りこくった魔女たちは銘々の反応を示しながら、静かに先を促す。
黄の魔女は、飽きたように何処かへ歩いて行った。
「図書館にある文学や哲学の本を、何も知らないまま手に取って、思うままに読んでみた。面白かった。ユゴーを読んで、生きたいと思った。トルストイを読んで、世界を見る目がハッキリとした。ジョイスを読んで、芸術に希望を抱いた。文学を大成することが、小説を書くことが、物語を紡ぐことが、僕の天性であり、使命だと思った」
「そして、全て虚構だった」
紫の冷酷な声に合わせて、手元の吸い殻が冷水に変わる。水は僕の右手を滑り落ちて、ゆっくりと、どこまでも落ちていった。
そう、全ては虚構だった。世界文学も美少女アニメも歴史も科学もねんどろいども。
僕はもう、zeitにさえresignしたいんだ。
「いつからか、古代ギリシャに生まれてソフィストになったり、春愁戦国時代に生まれて諸子百家になったりすれば良かったと思った。当たり前のことを無根拠に語るだけで褒められるのが羨ましかった。アリストテレスが現代に蘇って詭弁を弄しようものならきっと総叩きだ。人類は時間を消費しすぎた、進み続ける時間、そう、時間が、何よりも怖くなったんだ。怖くて、怖くて、また、死にたくなった」
「ですが、あなたは生きることを選びました」
あどけなさの抜けない紅が、誠意を込めた声でそう言った。濡れた指に赤いハンカチがかけられていた。
「生きることを、選んだわけじゃない。そうじゃなくて……」
そこで、僕は言葉に詰まった。
生きたくなんてない。生きている必要がない。生きていてはいけない。どれも違う気がする。
死にたい。死んだ方がいい。死ななければならない。それも本当は違うんだ。
分からない。死にたいと口で言いながら誰よりも死を恐れているし、他人が死にたいとか言ってると無性に殺したくなる。
生きる理由が欲しいようで、それが存在したとしてもきっと信じられない。
どうしようもなく体たらくで、呆れるほどに空疎で、自分なんてこの世で一番嫌いで。
人間の生きる意味というのは、全て自己の正当化に過ぎない。生存のシステム化を果たした生物だけが、そのスリル無き生に意味を見出したがる。
何者かになりたい時、将来を変えたい時、最後に必要なのは盲信することだ。それが自分のやりたいことだと信じ、盲目的な努力を繰り返す。それを人は無我夢中と形容し、美徳とする。
だが、所詮努力とは空虚だ。何かを得たと思っても、それは液体のように手中をすり抜け、気体のように見えなくなってしまう。
僕は何も信じられない。真実も、虚実も、いったいどれほどの根拠を持って僕の前に立ちはだかり、ただ"Being"としてあり続けるのか、まるで、分からないんだ。
僕の身体からは青い煙が立ち昇っていた。希死念慮の香りは汗に似ている。本当の苦しみに苛まれたとき、それを冷ますのは死への熱望だけである。
僕は死にたいのではなく――死によってただ苦しみから逃れたい。
見かねた黒の魔女が立ち上がって、優しく肩を叩いた。
「生きることに理由なんて必要ないよ。だって現に、君は今も生きているんだから」
僕はそれが欺瞞だと知っていた。生きているだけで偉い訳がないことを知っていた。或いは、自分が生きているという実感すら、殆ど空虚だった。
「あたしたちは死を知っている。でも、君を恨んだりしない。芸術のように、君を裏切ることもない。あたしたちはいつだって、現実をやり直すことができる。現実も仮想も、空虚であることに変わりはないからね」
それって魔法みたいじゃない?
糸のように細めた彼女の眼を、僕は初めて見つめかえした。
「君は最善を尽くした。あたしはそう思うから、君を尊敬しているよ」
黒の言葉を信じることはできない。でも、座り込んで動けない僕の肩に触れる彼女の実感は、確かに存在していた。
僕はただ肯定されたかっただけなんだろう。弱音を吐いて、優しい言葉を与えられたかっただけなんだろう。
自覚した途端、恥ずかしくって、視線を落とす。小さくなったいつかの水滴に焦点が合った。
透明な水滴の向こう、屈折した白の魔女が僕を睨みつける。
彼女は遥か遠く僕らの下で、ただ僕のことだけを見上げていた。
無感情な瞳には確かな嫉妬の炎が宿っている。
まだ、彼女の番ではなかった。
僕にはまだ、やるべきことがあった。それは巡礼の渇望、優しくも切ない黒――欲望の色。
差し伸べられた彼女の手をとって、僕は謝罪の代わりに、強くそれを握った。
「ありがとう。もう少し、頑張ってみるよ」
無理はしないでね、黒が言って、魔女の手はホットケーキのように暖かくて。
世界が青に染まってゆく。
夏は、寂しい。




