Pilgrimage-1
白昼夢みたいな夏の日差し、その儚さも忘れさせる夕立に似た君の横顔が夏の始まりを告げた気がして、僕は自分が臆病な人間であることを思い出す。
制服を纏う君、値札を付けた健気な人形。校則のない僕は肌に馴染んだ夏の自由を謳歌しながら、じっと、橋の下を流れる川を見ていた。
「こんなところで、何してるの?」
君の声が清涼な世界を穢す気がして、僕は欄干の錆を剥がす。指が、少し赤茶色に染まった。
「私は、絵を描きに来たの。芸術家だからね」
君は聞いてもいないのにそう言って、向かいの欄干に腰掛けた。グラファイトのように黒い髪が光を喰い破っている。
赤い鉛筆だけが入った筆箱、三本を引き抜き、そのうちの二つを口に咥えると、君はスケッチブックと向き合った。
「君は芸術家なんかじゃない、変人のフリをしただけの凡才だ。人の目なんて気にしていないと大仰に吹聴して、その発言自体が他者の目を誰よりも意識したものであることに気づくことさえできない。自分の感性を信じているなんて御大層に力説して、自らの不勉強を棚に上げては先人の完成させた形態を無作法に焼き直し、滑稽にも誇り掲げる。クリエイター気取りで規範を破ることを自慢する、この世で最も醜い人種だよ」
君は喋ると口元の鉛筆が落ちてしまうから、ただ黙々と、何かを描く。
君の左腕は艶めかしい。いつか君は言っていた、絵を描く時だけは左手を使うんだと。
筆は鳴る、汗が滲んで、喉を灼く。低い空が雲を殺して、ただ面妖に笑いかけていた。
視線は一向にこちらを向かず、よもやこんなところまで来ておいて風景画を描かずして、自らと向き合っているとでも言うのか。僕は夏風を腹で受けながら背後の大山を想った。
心地よい水音と気持ち悪い筆音。君が握っていた色鉛筆を放り捨てると、川が少し、怒ったように音を立てた。
「理想美を投影したって、無意識を記述したって、破壊を標榜したって、全ては幻想なんだ。折れた白菊、何回君が描いてみたって、もう到底意味は無いよ」
僕は川の代わりに、腹立たしさを表明した。
君は飄々としたまま咥えていた二本のうち蘇芳の方を握って、わざとらしく削るような音を立てる。
例えば限りある命さえフィクションで、事大主義さえ譫妄で、アイデンティティさえまやかしで。生きているという実感は愚か、対自なども誇大妄想に過ぎず、死体となんら変わるところのない僕らは自意識の浴槽に横たわっている。
僕は君が好きだ。
それは慈愛に満ちた優しさでなく――傲慢な施しとして。
言葉にはできない。言葉にしてしまえば、人の心に宿る純愛は痩せこけた枯葉になってしまうから。僕にとって君が必要なくらい、君にとって僕が必要であれば、それだけでよかった。
禿げた欄干が銅色の素肌を見せる。恥じらうようなその醜悪を殴打すると、小気味よく乾いた音がした。
また、川が怒る。
「君とは、初めて会った気がしないなぁ」
これは巡礼だから。言葉がまた、喉の奥で燃えた。
やっと話せるようになった君は最後の鉛筆の切っ先をこちらに向け、狙い澄ます。
世界の虚構を見透かす視線、熱烈な愛のテイラー展開。不連続な君への愛憎を僕はどう釈明すればいい?
単純化された対立構造が好悪を蝕むせいだ、何も愛することができないのは。
純真が胸を貫いて、どうしようもなくやるせなさが押し寄せて。
例えば自らの意志で動くことができるから人生は素晴らしいのだと、努力次第で僕らは何者にもなれるから尊いのだと。地に堕ちた浅はかを、海に呑まれた躊躇いを、欲動に巣食った愚かさを。比類なき美の完成だと思うのは、畢竟、結合されたシナプスの脅迫だ。
芸術なんてものが不完全を美化するのなら、きっとそれは間違っていた。
「でも、全ての人間は芸術家だよ?」
ボイスが、僕の思い上がりに水を差す。彫刻された社会が、君の像を形成している。焼け爛れた美学が、地獄の釜で口を開く。
その真っ直ぐな視線から逃げるように、僕は橋から落ちた。
空が小さくなって、世界がぐるりと回って、一秒がやけに長くって、宙に浮くって気持ちいいな、って、あぁ、手を伸ばして――
夏が遠ざかってゆく。
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