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96話 残り火と抑止力

 屋敷に漂う香と彼女たちから香る甘い匂いが混ざり合い、今にも塗りつぶされそうな脳髄をさらに蕩《とろ》けさせる。


「え、あ、秋野さん? なぜそんな恰好で──」


 腕立て伏せの恰好で固まったまま、そう言うのがやっとだった。

 彼女らはクスクス笑いながら敷居を跨ぎ、後ろ手で障子を閉めた。


「坂井様こそ、そんな恰好でどうされたのです? それに私のことは、どうか一葉とお呼びください」


 彼女が両手を畳につけて、俺の顔を下から覗き込もうとすると襟元から無防備な胸元が目に入った。見てはいけない様な気がして咄嗟に顔を背けた。


「一葉って……いや、それより何の用なんだ。もう、夜も更けてきた、二人とも自分の部屋に戻った方がいい」


 自分で言ってて馬鹿じゃないかと思った、分かっているのだ。彼女らが何をしにきたかなんて。


 据え膳食わぬは男の恥ってか。


 だがな、俺は寝取られモノが嫌いなんだよ。

 こんな性欲に負けたら玉蔵にあわせる顔がない。

 それ以上に俺にはハニートラップをかけられるような価値もない。


「女の口から言わせようなんて酷いですわ、私たちは坂井様のためだけにいるのですから」


 双葉という少女がすり寄り、俺の腕を優しく撫でる。


「うおっ」


 そっと撫ぜられただけだというのに力が抜け、畳に伏せてしまった。


 うぅ、股間が圧迫されて辛すぎる。


「……お辛いのでしょう、兵隊とは名ばかりのお嬢様方に見張られて発散されるお店にもいかれていないご様子。いいのですよ、私たちを好きになさっても。これからいつでも、どこでも貴方様を受け止めて差し上げます」


 伏せた俺の背中を一葉の指がナメクジの様に伝うと電撃が走るような感覚に陥り思わず、飛び跳ねるように壁に背を貼り付けた。


「きゃっ」


「はっー、はっー、何のつもりだ。俺はそんなこと望んでないぞ。大体、玉蔵の彼女だった君に手が出せるはずないだろ!」


 苦し紛れに叫ぶと一葉がほんの一瞬だけ哀しそうな顔を覗かせた、ただ次の瞬間には妖艶な女の表情を浮かべていた。


「坂井様はこんな薄汚れた女を抱くのはお嫌ですか。貴方様を狙った女が逆に命を助けられた恩返しをさせて頂きたいだけなのです、どうかお情けを頂けませんでしょうか」


 憐憫を誘うような言葉で、身体を俺に枝垂れかける。

 彼女の柔らかい身体が腕や胸に押し付けられ、耳元で聞こえる吐息がさらに鼓動を早くさせる。


「姉や私を助けて頂いた御方に返せるものはこれしかないのです。どうか許してくださいませ」


 いつの間にか双葉が俺の腕を絡めとり、空いた片手で俺の腹や胸を優しく愛撫する。


 ヤバい、このままだと流される。


 ……いや駄目だ、彼女たちの顔をよく見ろ。

 そして思い出しただろう、俺の最も嫌いな奴らのことを。


 奥歯を噛み締めて脳裏に思い起こす。

 あの糞みたいなブラック社畜時代を。


 弱い立場の女性を食い物にした人事課長、ライバル会社に勝つために女性をモノの様に取引先に宛がった部長。そんな彼女たちを奴らから守れなかった、そして自分の大切な女《ひと》ですら──


 自分に対する怒りと憎しみは残り火のように燻《くすぶ》り続けている──


 だから、そんな組織に嫌気がさして一人で仕事を請け負うようになったんじゃないのか。気軽だの興味がないだの嘯《うそぶ》いて、自分で自分を騙しながら──


 ここで折れたらあいつらと同類になる、それなら首でも括って死んだ方がマシって奴だ。


 荒く息を吐き、秋(・)野《・》を両腕で強く抱きしめた。


「ああ、坂井様……」


 抱きしめられた秋野が甘い息を吐く。


「……秋野さん、貴方は素敵な女性だ。どこも汚れてなんかいない。だから自分をそんな卑下しないでほしい」


「坂井様?」


 俺の顔を熱っぽい瞳が上目遣いで見つめていた。


「だけど、駄目なんだ。俺には君を抱けない。ここで君を抱いてしまえば俺は自分が許せなくて、もう死ぬしかなくなるんだ」


「死……?」


 秋野の肩を両手で掴み、身体を離す。

 感じていた柔らかさも消え、心が切なくなる。


「俺のことを本当に思ってくれているなら、大嫌いな奴らと俺を同じにさせないでくれ。頼むよ──」


 股間はギンギンだし、何が悲しいのか涙も鼻水も垂れ流しっぱなしだ。

 迫られてるのに命乞いをしているような、おっさんが人前じゃ絶対しちゃいけない顔をしているのだろう。


 涙で視界が滲んで世界がぼやける。


「それはどういう──」


 秋野が俺へ言葉を投げかけようとした瞬間。


 部屋の障子が煌めく銀色によって横一文字に断ち斬られ、冷たい冬の空気が身の毛がよだつ恐ろしい殺気と共に部屋へと流れ込んできた。


 侵入者を知らせる笛の音がそこかしこで鳴り響く。


 そんな笛の音などどこ吹く風で、ガチャガチャと明らかに重装備を思わせる金属音を鳴らし、畳を踏みつける軍靴から姿を見上げると、そこには美しくも雪女の様に悍ましい瘴気をまき散らす凜が立っていた。


 なんで、凜(ゴリラ)がここに?


「ごきげんよう、坂井様。両手に花とは大層なご身分ですこと。どおりでこの私への相談を断るはずですわね。ふふふ」


 うわ、怖っ。


 今までギンギンだった愚息もしょんぼりを通り越して引っ込んだぞ、おい。

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