92話 時代のうねりと失恋と
旭川の街はすっかり雪景色となり、家々の屋根では雪下ろしをしている人影が目に入る。そんな風景を眺めつつ、最近できたという商店街に向かってのんびりと歩いてゆく。
……本当に久しぶりのオフだ。
俺はただ元いた時代に戻りたいだけなのに、何故こうも明治の世であくせく働いているのか。なんか、おかしくないか?
吐き出した白い息を目で追うと、遠くに見える山々が真っ白に染まっているのが見えた。
雄大な山々から吹き下ろされる風を顔に感じて、外套の内側にあるポケットのカイロを触る。暖かい、というか直接触ると熱いくらいだ。
家を出る時に遠藤から今月売り出す新商品と言われて渡されたものだが、明らかに見た目がハクキンカイロだ。詳しくは知らないが飛行機の燃料を作ったときに出来た、余りものを流用しているらしい。
「ちょっとガソリン臭いけど、寒いよりはマシだな」
立ち止まって、青く晴れた空を見上げて大きくため息をついた。
空はこんなに晴れているのに、俺の心はさっぱり晴れない。未来に帰る手がかり探しが、まるで進んでいないからだ。
凜に進捗を聞けば、手がかり探しも雪が積もってしまってお手上げ状態らしい。
集めた噂や伝承にある場所は山の祠や洞窟なんかの辺鄙なところばかりで、下手に探索になんかに行った日には部隊が全滅するとかなんとか。
昔見た雪山で軍隊が遭難する映画の場面を思い出した。
「雪山は怖いよなぁ、八甲田山みたいになっちまうわな」
それに以前行った寺で安置している石碑も最近は魂の充填が間に合わないのか、うんともすんとも言わなくなっている。街の死亡率も最近は減少傾向らしい、それはいいことだと思うんだが。
この前行った時なんて、陽気な住職が檀家の金で作ったスノーボードを自慢してきただけだ。
……お前、勝手に石碑使ってないよね?
もやもやした気持ちを抱えながらも、歩を進めるとアーケードのような屋根のついた商店街が見え、師走の買い物に来ているのか様々な人々でごった返していた。
「狸小路っぽい作りだな、これ」
色々な店が軒を並べていて、見ているだけでも楽しい。
模型屋の小さなショーウィンドウには凜が世界で初めて飛んだ飛行機模型が飾られていたり、甘い匂いが漂ってくる店に目を向ければピンクのエプロンをつけた熊のように大柄の外国人がベビーカステラをせっせと焼いて子どもに手渡している。
「うわ懐かしいな、帰りに買ってみるか」
さらに奥へ進めば人だかりができており、聞こえてくる声の先には新聞社の腕章をつけたハンチング帽の男が道行く人々に紙を配っていた。
『号外! ごうがーい! なんとロシアが満州から出て行ったよ! その上、不可侵協定まで結んだっていうから大変だ!』
新聞の号外を手に取り立ち止まっている人々は驚きを隠さず、口々に討論を始めていた。
俺も号外を受け取って記事を見てみると満州からロシア兵が逃げていく挿絵と共に仰々しい文体で『満州奪還、ロシアと不可侵条約締結す』と書かれている。
じゃあ、日露戦争が起きないってことかな。
戦争が起きないことはいいこと……だよな?
◇
本屋で新刊を何冊か手に入れると、商店街の隅にあるこじんまりとした喫茶店に入ってみた。
店内にはコーヒーと煙草の匂いが漂っており、店主と目が合うとにこやかな笑顔でテーブル席を勧められた。
俺の他には奥の席に客がいる程度で静かなもんだ。
店主にコーヒーと軽食を頼んでから、買った本を鞄から出して読み始める。
難しい漢字や言い回しが多いが、まぁ読める。
「今、実際に森鴎外とか正岡子規とかが生きてる時代だもんなぁ。なんか不思議な感じ」
本屋の店主に夏目漱石の本はないか尋ねると知らないと言われてしまった。
まだ書いてないのかな、吾輩は猫であるの初版本が欲しかったのに。
湯気の上がるコーヒーを楽しみながら優雅に読書を楽しんでいると、奥の席から男の大声が聞こえてきた。
何事かと思い、衝立の影から顔を出して覗くとそこには顔面蒼白な玉蔵が立ち上がって震えていた。いつもと違う様子に声を掛けられないでいると「さようなら!」と聞こえるや否や、洋服を着た女が俺の横を通りぬけ外へ出てゆく。横を通ったとき、一瞬だけ俺の顔を見るとなんだかバツの悪そうな表情を浮かべていた。
「……今の秋野さんだよな。どうしたんだ?」
立ち上がって奥の席に向かうと玉蔵が床にうずくまって泣いている。
「お、おい、玉蔵。大丈夫か、何があった」
声をかけると俺の脚に縋り付いてきた。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ、ハンカチを貸しても手で握りしめたまま動かない。
「修さぁん! 冬子がぁ! 他に好きな人ができたから別れるって!」
うわぁ、もしかしてこれ俺が原因か?
でも、玉蔵に近づいたのも潜入のためだって言ってたから、いずれこうなってたのか? それにしたってもうちょっとやりようなかったのかよ、秋野さん……
どうやって慰めたらいいんだ、これ。
「ひっく、今日こそはウサギの耳をつけて水着を着てもらおうと思ってたのに……」
あ、これはこいつが悪いわ。
脚に縋り付く玉蔵を蹴とばして席に戻り、ぬるくなったコーヒーに口をつけると続きのページをめくった。




