89話 気分転換とメンヘラヤクザ
──二日前
イギリス公使は顔を赤く染めるとソファーから立ち上がり、乱暴にドアを閉めて立ち去った。置き去りにされた通訳が慌ててその姿を追っていく。
暖炉の薪が小さく爆ぜる音が聞こえるほど部屋が静かになってから、ようやく息を短く吐いた。
「英国は紳士の国だと聞いていましたが、どうやらこちらには紳士が居なかったようで」
側に立つ妹の凜に顔を向け、そう話すと見慣れた蔑むような目を向けられた。
妹にとっては私も今の英国人もそう変わらないらしい。
「こちらにもあの手この手でお誘いが来てますのよ、強引な方は私を拐かそうとまでしましたので丁重にお帰り願いました」
丁重に、ね。どこに帰ったのかは聞くのも野暮な話だ。
こちらが飛行機を飛ばしてからというもの自国も含め、各国の動きが活発になっている。密偵を潜り込ませるなんて序の口、身内の者を攫って脅す、宥めすかして亡命を唆す、果てにはお堀の中にお住まいの尊き御方の命だ、とまで。全く呆れ果てたものだ。
「ひとまず繋ぎのパトロンは見つけましたからね。余計な紐など要りませんが、完全に無視するわけにもいかない。いやはや困ったものです」
財閥の資産にも迫る資金を持ち、現物をすぐに用意できるパトロンが。
何より十年も経てば、没落して歴史の影に隠れてしまうところがとても都合が良い。
「確か、ニシン御殿の網元でしたか。最初は何事かと思いましたわ」
太りすぎて動きの取れない親方が神輿のように担ぎ上げられて、目の前に現れた時は面食らってしまった。確かに少し話をして知能と才覚には舌を巻いたが、採りすぎて近い未来にニシンが来なくなることを予測できないような奴からは毟れるだけ毟っておけばよい。
「あくまでも繋ぎです。次の手が出せる頃合いには海外の貨幣経済の元締めに湯水のごとく吐き出してもらいます。ところで坂井は今、何をしているんですか?」
今まで無表情だった凜が今日初めて表情を緩めた。
「技術士官の方々に詰め寄られて口をパクパクされていましたわよ。陸に揚げられた魚にそっくりで笑ってしまいましたわ」
思い出したように口に手を当てて小さく笑っている。
……ふむ、相変わらず妹とは笑いのツボが合わないようだ。
人の哀れな姿を笑うなど趣味が悪すぎる。
良し、では私が坂井の車がどんな風に飛行機に生まれ変わったかを教えてやるとしよう。自分の持っている知識や技術がどれだけ役に立ったかを知れば奴の気分転換にもなるだろう。
すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干し、さっきまで重かった腰をあげた。
◇
馬車の柔らかいシートに背を預けると坂井に車を見せた時のことを思い出した。
「ふふふ」
坂井に車を分解したことを散々罵倒されたが有意義な時間だった。
やはり奴は変わらない、自分がどれだけ変わろうと坂井がいる限り初心に立ち戻れると信じるに値する。
「変わらない。変わらない、か」
何も考えずに口から零れた言葉を頭の中で繰り返すうちに、坂井を失ったとき自分がどうなってしまうか思い描いてしまい額から脂汗が垂れた。
最初はただの奇貨としてしか見ていなかった。だが、今では自分の中で奴が想像以上に大きな存在になっていることに気付いてしまった。
──ランプの光が車内を照らす中、震える自分の両手を見た。
途端に自分の手が血で汚れているのを幻視し、恐怖した。いずれ俺が変わっていることに奴が気づき、憎々しい目を向け離れていく未来にだ。
「それは、駄目だ」
ならどうすればいい。いっそ、そんな目で見られるくらいなら遠くに放逐してしまうのもいいかもしれない。……いや、そんなのはもっと駄目だ。
奴は自分の命を軽く見すぎている、私たちが見ていないと容易く凡百の為に命を投げ出すだろう。そんなことは許されない。
命が大事だと怒る癖に、己の命の価値を知らないなど、なんという馬鹿だ。
しかし、だからこそ誰も彼も奴に勝手についていく。
みんな困ったような顔で勝手に死なれては困るからと。
手下たちもいつの間にか笑って奴の周りにいる。
打算的な私に見せる顔とは違う。
「うぅ」
苦しくて息が詰まる、頭の中で考えが堂々巡りして気持ちが悪い。
脳裏に浮かぶのは、坂井と比べた劣等感。そして、何もかも計算ずくで解決しようとする自分への、吐き気がするほどの嫌悪感だった。
「うげぇ──」
胃の中身を床にぶちまけると荒い吐息と共にようやく一つだけ、思い浮かんだ。
「私はもう輝くことはできない、戻れない。……なら、坂井には私と同じになってもらえばいい──そうすれば私たちは兄弟になれる」
車内の棚に備え付けられていた冠水瓶からコップに水を注ぎ、一気に呷る。そして目的地に到着するまで、静かに思案に沈んでいった。




