85話 痛む手と放す手
手に感じた熱はすぐに引き、代わりに心臓の鼓動に合わせて痛みが押し寄せてきた。即座に脇の下の止血点を押さえたが、流れる血はズボンや床を紅く染め続ける。
……ちゃんと救命救急トレーニング受けといてよかった。
まだ右手にクナイは刺さったままだが。
荒く吐いた息はすでに白くなり、思った以上に高度が上がっていることが分かった。高度か失血のせいなのか、頭の中で鐘が鳴ってるように痛む。
何度かゆっくりと深く呼吸を繰り返せば、肺は焼けるように痛んだが頭痛は少し和らぐ。一体今、地上何メートルだ?
「はぁっ、なんだお前。クナイとか忍者かよ」
手を刺された痛みのせいか、妙に頭は冴えていて冷静に自分自身を見れていることに驚く。
俺を刺した奴は音もなく立ち上がっているが、帽子を目深にかぶっているため顔が見えない。だが、片手にはもう別の匕首が握られていて今にも襲い掛かってきそうだ。見たところ相手も酸欠のためか、ふらついているように見える。
「こなくそっ!」
ここで背中を見せたら刺される!
何とか歯を食いしばり敵に向かって前へ足を突き出した。
オラッ! 安全靴トゥキックだ! ドラム缶だってべっこべこよ。
「うっ!」
避けようとした相手の腹に入ったらしく、壁にぶつかって倒れた。
「ありゃ、意外とあっけないな。そりゃこんな状況は未体験か、俺もだ」
空気の薄さや気圧を知識で知ってる俺と、いきなり上空に来た奴では踏ん張る覚悟が違うか。
手から落ちた匕首を足で蹴とばしながら倒れた相手の体つきを見てみれば、ずいぶんと小柄だ。ピクリとも動かないのを確認して遠藤に口元のマイクで話しかけた。
「遠藤さん! 大砲のとこで襲われてるんだけど! もしもし!?」
『ザザァー、ザッサー──』
無線がノイズだらけで通じん! くそっ、鉄板で囲われてるのが仇になったか。
それに、今の声や音で誰も来ないところをみると、この甲高いエンジン音でかき消されて外に聞こえないのか。
「──がぁっ! 死ね!」
倒れて動かないと思って目を離した隙に、先ほど持ち込んだケーブルを俺の首に巻きつけ、背を合わせて後ろから締め上げる。何とか指を首とケーブルの間に挟み込み完全にキマるのを防いだ。
「ぐえぇ! なんなんだ、お前!」
「お前はこの世にいちゃいけないんだ! こんな兵器を作って誰が幸せになる!」
「なんの話だ! 俺は兵器なんて作ったつもりはねぇ! お前らには兵器に見えてもこいつは遠藤の夢なんだよ!」
「夢!? 貴様らにとっては玩具か!? じゃあこの大砲は何なんだ!」
「それは俺が聞きてぇよ、馬鹿野郎!」
怒鳴りながら力を振り絞ってケーブルを引く。ちょうど機首がさらに上を向いたのか床の傾きが急になり、酸欠で足元がおぼつかない相手の体はあっけなく宙を舞って背中から大砲にぶつかった。
「あがぁ! うぅ、このままでは……」
壁に寄りかかり体を擦りつけながら立ち上がった拍子に、「カイホウ」と書かれたレバーが途中で引っかかり、押し込まれた瞬間に警告灯が点灯する。
「あ、馬鹿!」
モーターの駆動音と警報ベルが鳴り響き、大砲を外壁に露出するための隔壁が徐々に開いていく。凄まじい風が部屋の中を渦巻き、さっきまでとは比較にならない冷気が肌を刺していく。
風で帽子が脱げ、外へと吸い込まれていくと黒髪が風にたなびいて広がった。
「──あんた、秋野さんか!?」
開き切った隔壁の外に流れる雲をうつろな目で見て、振り向き笑った。
「ふふ、白々しい。最初から知っていたくせに。あーあ……せめて、双葉は助けたかったなぁ」
◇
ぽっかりと開いた穴へ足を一歩踏み出す。
あれほど轟々と吹き荒れていた風が一瞬止んだような気がした。
誰かが叫んでいる声がする。
もう、どうでもいい。
目の前に広がる嘘みたいに青い、とても青い空。
何も為せず、何も救えず、誰にも必要とされない私の人生は何だったんだろう。
……でも、もうそんな思いをしなくてもいい。
そう思うと体に羽が生えたみたいだった。
「──ぶぅぇっ!」
儚い思いは現実の痛みと冷たく吹き荒れる暴風に吹き飛ばされた。腹の中のものが全部出てしまいそうな衝撃に身悶えする。
体を見れば、いつの間にか両脇の下にケーブルが通されて、どうあがいても解けそうにない。何とか顔を上げれば奴が開いた扉から私を引っ張り上げようとしていた。
「目の前で紐なしバンジーやらせる趣味はねぇんだよ!」
「離せ! もう生きていても意味がない!」
「知ったこっちゃねぇんだよ! そんなこたぁ! 目の前で死なれちゃ目覚めが悪いって言ってんだ!」
初めて会った時の胡乱な表情じゃなく、鬼の形相で血塗れになってケーブルを引っ張っている。自分の命を狙った奴を助けようなんて、どうかしている。
「うおあっ! 揺れる! ほら、もう少しだっ! がんばれ!」
体が揺れるたびに男の手に巻き付けた線を伝って血が私の頬を濡らす。
私を励ましながら引き上げようとする姿は、あのうつろな目をした男とはどう考えても結びつかない。まるで別人だ。
空中で揺られながら胸元から暗器を取り出す。
今、これを男に投げれば確実にこの男を仕留められる──
……自分の命を狙った女を助けようとしているこの男を?
数瞬の逡巡のあと、暗器を手放すとそのまま空に飲み込まれるように一瞬で消えていった。
「……もういい、放せ。貴様まで落ちるぞ」
「なんでそんなに命が軽いんだ! ふざけやがって! 絶対に離さねぇからな!」
泣きながら無様に口から赤い泡を飛ばして叫ぶ男が、なぜか、とても輝いてみえた。




