79話 親切心と猜疑心
「ごめんくださいまし。坂井様、少しお時間宜しいでしょうか」
まだ眉間にしわを寄せている玉蔵のコーヒーカップへ勝手に砂糖をドバドバ入れていると、廊下から呼びかける凜の声が聞こえた。
「おはようございます、ちょっと玉蔵とお連れさんが来てますがそれでも良ければ」
すっ、と障子が開き、廊下の寒い空気と共に凜が部屋に入ると暖かい空気に顔を緩めた。
「あら、玉蔵さん。いらっしゃいませ、最近稽古に来られないのでどうされたのかと思っておりましたわ。今日はずいぶん可愛らしいお嬢さんも連れてらっしゃるのね」
確かに最近稽古にはきてなかったが、初めて彼女ができたんだから大目に見てあげたらいいのに。
「紹介するよ、この子は玉蔵の彼女で秋野さん。近く寄ったから挨拶に来たんだとさ。秋野さん、この人がこの家の主の妹さん、遠藤凜さんだ」
「初めまして、秋野と申します。遠藤社長の工場で働かせていただいております。世界初の飛行士にお会いできるなんて光栄ですわ」
「あら、ありがとう。ですが、もうしばらくすれば誰でも空を飛ぶ時代がやって参りますわ」
なんだか棘があるなあ、今日機嫌悪い?
「んで、凜さん。何か用があったんじゃないの?」
「はい、坂井様にアメリカ公使館とロシア公使館からまたお手紙が来てましたのでお届けに参りましたの」
凜の言葉に、秋野さんの背筋が少し伸びたように見えた。正座してて足でも痺れたのかな。
「えぇ? またあ。この前の手紙はどっか行っちゃったし謝罪の催促なのかな、あれどこ行ったか凜さん知ってる?」
「さあ、存じませんね。寝ぼけて適当に返信されたのではないですか?」
うーん、そうかな?
そう言われると正直自信がない。
最近忙しすぎて記憶が飛ぶことがあるからな。
一回しっかり休まないと未来に帰るどころか体を壊してしまいそうだ。
受け取った封筒をレターナイフで開け、手紙を取り出すとびっしりと流暢な筆記体で書かれた文章が目に入ってきた。徹夜明けの目と頭には全くもって良くない。
それに筆記体読めないんだよな……凜さんにお願いしよう、そうしよう。
目頭を押さえて、凜さんにそっと手紙を手渡した。
「凜さん、すまないけど訳して読み上げてもらっていい?」
「玉蔵さんも秋野さんもいらっしゃいますがいいんですの?」
「いいのいいの、どうせ大したこと書いてないって」
「はぁ、そう仰られるのであれば読みますが。ええと、時節の挨拶や前置きなどは端折らせて頂きますわね。『ドクター坂井、あなたの慧眼には一目置くところである。お互いに不幸な誤解があったようだ。是非とも、末永く個人的な友誼を結ばせて頂きたい。駐在武官リチャード・A・スターキー』……ふふっ、不幸な誤解ですって。誤解が解けてよろしかったですわね」
もう一通のロシアからの手紙も似たような内容だった。
謝罪文章を書かなくても良くなったっぽいな、ラッキー。
ほら、この前はちょっと強く言い過ぎたから仲良くしましょうって大したことない内容だ。
玉蔵もお茶うけに出したシナモンドーナツと甘々コーヒーに夢中だし、秋野さんも──
あれ、秋野さんが固まってる?
心なしか顔色も悪いな、もしかして──
「秋野さん、やっぱりコーヒー口に合わなかった? ごめんね、無理に飲ませたみたいで」
「い、いいえ。大丈夫です、ですが少々所用を思い出しまして。今日はこれで失礼させていただきますね」
「あら、残念。もっとゆっくりしていけばよろしいのに」
立ち上がる彼女に凜が声をかける。
「冬子さん、大丈夫? 修さん、それじゃまた来ますね」
玉蔵に付き添われ、そそくさと出ていく彼女を見送るとため息をついた。
「気を使わせてしまったか。悪いことしちゃったかなぁ、やっぱり最初はコーヒー牛乳にしてあげればよかったかな」
あれなら子供でも飲めるからな、今度来たらそうしよう。
「坂井様、私にも珈琲をいただけますか。先ほど彼らに出したのと同じものを」
急に機嫌が直ったかのように、ほほ笑む凜を訝しみながら、入れなおしたコーヒーを渡すと苦さに顔をしかめながらも彼女の口角は上がったままだった。
◇
適当な理由をつけて自分を心配する男と別れ、建物の影で胃の中身を全て吐き出し、隠形を使いながらひた走る。
(失敗した! 噂以上だ、到底私の手には負えない!)
どこにでもある六畳一間の部屋、見慣れぬ暖房器具で暖かく快適になってはいたが、驚いたのはそこではない。
いかなる時も冷静沈着に任務につけるよう拷問のような訓練を重ねたにも関わらず、あの男のただ微笑む顔とがらんどうの目に恐怖してしまった。
瞳は瞳孔が開いたまま常に揺れ、見ているようで何も見てなどいなかった。私のことなど映ってすらいなかったのだろう、それなのに努めて常人のふりをしている。
人の皮を被った得体の知れない何かが、だ。
人心掌握に特化した私が全く相手の心を読めない。いや、この男の心は読みたくないと思ってしまった。
恋人役に選んだ男はこの化け物にすっかり騙され、この異常な状況がいつものことだと言わんばかりに平然としていた。
まさか、洗脳……?
警戒しながら男の様子を窺っていると、珈琲を差し出された。真っ当なモノとは思えないが少しでも信用を得るには飲まざるを得ない。
男は恍惚の笑みを浮かべながら、その液体を口に含む。
(……狂人め)
だが、毒物を幼い頃より飲まされ続けてきた私には効かない、長年の訓練により味覚や嗅覚はほぼ消えてしまったが死ぬよりはマシだ。
──恐らく、その慢心を嘲笑ったのだろう。
(しまった!)
玉蔵の反応を見るに常人ではとても飲めない苦さだったのだろう、それなのに目の前の男が美味そうに飲む態度に釣られ反応が遅れてしまった。
私が見苦しい言い訳をすると、初めて男の目に私が映ったような気がして背筋に冷たいものが走った。




