76話 二日酔いと勝手に動き出す周囲
辺りの騒がしさに目を開ければ、すでに客は見当たらず給仕服を着こんだ男衆がテーブルの食器を片づけたり床の掃除をしたりと忙しそうに動き回っているのが見えた。
「……んん、背中痛ぇ」
体を起こすと、なぜかテーブルクロスを体に巻き付け床に転がっていた。
遠藤の聞くに堪えない話をビールを飲みながら聞き流していたところまでは覚えているが、それからは何があったか全く覚えていない。二日酔いの鈍痛が頭を襲うばかりだ。
「坂井の兄貴、おはようございます。すんませんが卓布を返してくだせぇ」
「あー、すまん。なんでこんなの体に巻いて寝てたんだろ」
「兄貴が、俺は芋虫とか言って丸まってましたよ」
……何をやっているんだ俺は。
のそのそと這い出ると、目の前に誰かの革靴が見えた。
見上げると見たことがないぐらいニッコニコの笑顔を浮かべた遠藤が立っていた。
「やぁ、坂井さん。あなたのおかげで発表会は大、大、大成功でしたよ! ここまでうまくいくとは思ってもみませんでした。今さっき終わったばかりなのに、既に各国の公使館からの使いや軍関係者が押し寄せてきています! さぁ、忙しくなりますよ!」
俺のおかげと言われても、なーんにも覚えとらん。
まぁ成功したならいいんじゃない。
「ああ、そうだ坂井さん。あなたにアメリカとロシアから公式な謝罪を求める公文書が届いておりますので、後で適当に目を通しておいてください」
満面の笑みのまま、分厚い紙束を俺に差し出した。
え、俺なにかやっちゃいました?
◇
凜から俺が酔っぱらってる時に言ってた妄言の数々を教えてもらった。
「がっつりやらかしてる……!」
凜に訳してもらった公文書には飛行機という新兵器によって世界の秩序を脅かしたことへの謝罪と、平和のために飛行機の全技術を開示せよ、というふざけた文言が並んでいた。
「坂井様のやらかしは置いておくとして。ちゃっかりしておりますわね、さすが火事場泥棒と傍若無人を絵にかいたような国だこと」
「……凜さん、あんたも大概だと思うよ」
「仕方がございませんね、何せ坂井様に言わせれば、見た目だけは良い女らしいので」
あの時見せた笑顔を浮かべているが目が全く笑ってない。根に持ちすぎだろ、怖いなあ。
「い、いやぁ、凜さんはこれで世界初のパイロットになったわけだ! これなら世の男は放っておかないよ!」
苦し紛れの言い訳をするとジト目で顔を見つめられたが、俺が堪らず目を逸らすとため息をついた。
「それでどうされるんですの? 謝罪はともかく、技術開示なんて盗っ人猛々しいにもほどがありますわね」
ぷりぷりと怒る姿は小動物みたいなんだけどな。中身が羆なのはバグだよな。
「皆が苦労して作り上げた飛行機を易々と渡すわけにはいかないし、なにより俺のハイエースから抜いた部品使いまくってるからバレたらヤバいことになるだろ」
「では、どう返答しますの?」
「とりあえず俺宛に届いた手紙だから適当に書いて煙に巻いておくよ。まぁ内容は後で考えるんで、そこに置いといてください。とにかく頭がべたつくんで、とりあえず銭湯に行ってきます」
「わかりましたわ、いってらっしゃいませ」
ポマードか何か知らないが、この時代の整髪料はベトつき過ぎだ。
この前石碑に触ってからなんだか肩も重たいし、風呂に入ってすっきりしよう。
俺はいつもの格好に着替えて、足早に銭湯へと向かった。
──数分後
「シュウいるー? 聞きたいことが、あれ? 凜だけ?」
「あら、ジェーンさん。坂井様は銭湯に行かれましたよ。そうそう、ジェーンさんにアメリカのことわざでお聞きしたいことがございまして……」
◇
──旭川 アメリカ臨時公使館
あの日からアメリカ駐在武官リチャードは落ち着かない様子で部屋の中を何度も歩き回ることが多くなった。
「リチャードさん、少しは落ち着かれたらどうでしょうか」
「……黙れ、誰のせいでこんなに気を揉んでいると思っているのだ、Greenhornという言葉はお前のためにあるのかも知れないな」
「……いやはや、手厳しい」
髭だけは一人前の公使が顔をひきつらせていた。
ふん、青二才めが。
俺がこんなに悩んでいるのは、飛行機の初飛行後に招かれた素晴らしいレセプションで出会った男のせいだ。
上等なワインも香り立つ料理も、先ほど世界で初めて飛んだ飛行機すらも、あの男の前ではどうでも良くなった。
髪の毛を無理やり撫でつけ、燕尾服を着ている。日本人にしては大柄で筋肉質、いかにも兵士向きな男だ。だが、恐ろしいのはその『目』だ。
死んでいる。比喩ではなく『目』が死んでいる。
幾多の凄惨な戦場で武官として経験を積み、死体など見慣れている俺にはわかる。生きながらに死んでいるあの男の背後には、無数の死者の影が蠢いているように見えたのだ。
……一人なのに一人ではない。何人もの死者の怨念をその背に負っている。通常であれば、その重圧だけで発狂してもおかしくない業を背負いながら、あの男は平然とチーズをかじり、退屈そうに酒を飲んでいた。まるで自分もその怨念の一人だというように。
『常在戦場』という日本のことわざを聞いたことはあるが、あの男は戦場どころではない。地獄を日常として生き、完全に人とは別の生き物になってしまっている。
どうしたらあそこまで悍ましい化け物が出来上がるのだ!
司会をする男や初飛行を達成した女、こいつらからも同じような匂いを感じたが、あの男の異様さは群を抜いている。
世界の歴史を変える新兵器の性能を前にして、軍人たちが色めき立つ中、あの男だけは欠伸を噛み殺していた。圧倒的な力を見ても何の感動も抱いていない。まるで「そんな玩具など見飽きている」とでも言わんばかりに。
だからこそ、あの男が吐き捨てた「ホワイトハウスに爆弾を落とす」という言葉は、呪いのように俺の脳髄を揺らした。
声高な恫喝であれば笑い飛ばせた。だが違う、あの男はただ「害虫に塩を撒く」ような、平坦で無機質なトーンで言い放ったのだ。
説得力などという生温いものではなく、肌で感じた。あの男は何の感傷も後悔もなく、パンを齧りながら鼻歌交じりの片手間で幾多の銀翼を我が国の首都に差し向け、護るべき人々の悲鳴すらも灰燼に帰す地獄を作り出すことができると。
そんな男に、この若造は謝罪と、あまつさえ飛行機の技術開示を求めただと?!
イラつきは収まらず、震える手でパイプを取り出したところで、ドアをノックする音が響いた。
使用人から公使が手紙を受け取り、中身を確認すると不思議な顔で俺に差し出してきた。
なぜそんな顔をしているのか分からず、手から封筒を奪い取ると差出人を見た。
送り主はあの男、坂井だ。
中の手紙に書かれていたのはただ一文のみ。
You don’t know dung from wild honey.(お前は糞とハチミツの区別もついてない)
ただ、それだけ。
思わずパイプを口から落とし、俺は狂ったように笑い転げた。若い奴にはわからんだろうが、半世紀も前なら撃ち殺されても文句は言えない言葉だ。
だが、確かにこいつの言うとおりだ。
あの悪魔に向かって「技術を寄越せ」などと紙切れで脅した気になっている俺たちは、確かに糞とハチミツの区別もついていない時代遅れの大馬鹿者だと言うことだ。
奴は、我々の無知と無力さを冷酷に嘲笑っている。
……なんとかあの悪魔を飼いならさなければ、アメリカに未来はない。




