70話 酒の肴と逃げられない定め
肌がヒリつく程度には目の前の男から怒気を感じる。
あの時、ボコボコにやられた記憶が強制的に俺の頭を高速回転させた。
──俺を捜していた? もしかして、あの小説の続きのエロ部分がバレたのか? いや、それはないはずだ。あの後、凜さんから返してもらった現物と勝手に写本していた奴から取り上げたものも、まとめて燃やしたからな。
じゃあ、別の理由か? 維新志士の子供とかそういう誤解が解けたのか? それもわざわざ旭川で夜になっても俺を捜す理由としては弱いな。
まてよ、俺が永倉を付け狙う輩だと勘違いしたままなのが一番しっくりくる。そんな奴は危ないから、やっぱり消しておこうってのは元新選組的にあり得るな。
うーん、ヤバいか?
他に思い浮かばず、いつでも逃げられるように重心を低くしていると、永倉がおもむろに頭を下げた。
「いや、申し訳ない。自分で思っていたより気が立っていたようだ」
謝罪の言葉と共に、嘘のように緊張していた空気が和らいだ。ようやく刀の柄頭から手を離した凜も、永倉を訝しげに見つめた。
「あの、坂井様。この方は?」
「ああ、凜さんは会ったことがなかったか。今は杉村さんだったかな──元新選組の二番隊組長だった人だよ」
「新選組、二番隊組長……永倉新八!?」
永倉は驚く凜さんを見て、満更でもない様子で顎髭を触った。
「こほんっ、失礼致しました、永倉様。樺戸集治監で剣術指南をされているとは聞いておりましたが、坂井様とお知り合いでしたのね、お会いできて光栄ですわ」
「ああ、彼とはこの間ちょっとだけ立ち会いをしてね。ほう、怪我はもう良いみたいだね」
「あの傷はそういう事でしたのね」
まじまじと俺の顔を見てるけど、あの時はボロボロの俺に有無を言わさず折檻したよね。まぁ、俺が悪いんだけどさ。
「こんな場所で立ち話もなんだし、そこの居酒屋にでも行かないか」
足元を通り過ぎる寒風を感じながら縄のれんがかかった赤提灯を指差した。
◇
「らっしゃい! おっ、坂井の旦那じゃないですかい。外はお寒かったでしょう。ささっ、こちらへどうぞどうぞ」
戸を開けば、大将の掛け声と共に暖かい空気と酒が飲みたくなるいい匂いが漂ってきた。
「ほう、これはなんとも変わった作りの店だ」
店内を見渡して永倉が呟いた。
確かに他の居酒屋とは一線を画した作りだと思う。
料理する姿が見えるコの字形のカウンター。各テーブルには小型の囲炉裏、小上がりは掘り炬燵になっており火鉢のお陰で足元も暖かい。
何故なら、ここは遠藤組が仕切ってる『阿弖流為』という居酒屋で実は何度も来ているのだ。俺が適当に教えた酒に合う料理のテストもしている。
俺がアイデアを出す代わりに、少しだけ飲み食いの値引きしてもらってる。最初は遠藤がかなり上前をハネる話で進めていたが、俺は旨い物が少しお得に飲み食いできればそれでいい。今日も盛況なようで大将も笑顔、結構なことだ。
大将の案内で奥の長火鉢を囲む卓に通され、温かいオシボリとお茶が渡された。
「これは良い、かじかんだ手がほぐれていくようだ。足元も暖かいとはなんともはや」
じんわりと手を温めている永倉と凜を横目にオシボリで顔を拭いた。凜が一瞬だけ嫌な顔をしたのは見なかったことにしよう。ああ、気持ちいい。
「さて、話を──」
熱いお茶を一啜りすると永倉が本題に入ろうとしたので手を突き出し止めた。このせっかちさんめ。
「どうした、何かあったかね」
「ここは居酒屋だ、話はもう少し腹を温めてからでもいいんじゃないか? おーい、大将ー」
「へいっ!」
「燗を三本と、これと、これ。えーと、後これとこれね。凜さんは焼酎かな? 北口酒造の特級お湯割りで」
「かしこまり! これ、お通しです」
数の子が多めに入った松前漬けの小鉢を見て永倉が目を細めた。
「永倉さん、もしかして松前漬け苦手でした?」
「なに、少し国を思い出してね。ガキの頃はよく食べたものだ。するめと昆布だけの質素なものだったよ、こんな数の子は入っていなかったがね」
箸で少しずつ口に運んでは、よく噛みしめて頷いた。
「国と仰いましたが、ご出身をお聴きしても宜しいのかしら」
しみじみと食べる永倉に凜が尋ねた。
「ああ、良いとも。儂は江戸の生まれだが、親父が松前藩士でね。志を持って脱藩したのだが、結局のところ最後は藩の温情を受けてここにいるというわけだ。その藩も今は昔だがね」
「そうでしたの……」
ああ、だから晩年は小樽に居たのかこの人。新選組は好きで若い頃に調べてたことがあったけど、そこまでは知らなかったよ。
でも凄いな、歴史上の人物と居酒屋で飯食ってるとか信じられないぜ。
「へい、お待ち!」
威勢のいい鮨屋の親父のような掛け声と共に出されたのは酒と肴の数々だ。
「おー、これこれ。北海道でもうチーズが作られてて良かったよ」
皿の上に綺麗に並べられた、いぶりがっこに挟まったチーズを口に入れ噛みしめる。スモーキーな薫りと甘しょっぱさ、チーズのねっとりとコクのある脂が絡み合う、ぽりぽりとした食感も最高だ。辛口の酒で口を洗い流せば一瞬だが現代に戻って来たかのような感覚に陥る。
「なんだね、その珍妙なものは。沢庵も随分とくすんだ色をしているようだが」
「いぶりがっこって燻した沢庵だ。それにチーズ、牛の乳を固めたものを挟んでる、酒に合うぜ」
隣に座った凜さんは小鍋のおでん大根を手にとり、カラシをたっぷりとつけてハフハフいいながら食べてはお湯割り焼酎で流し込んでいる。あんたはもう立派なおっさんや。
「なるほど珍しいものばかりだが、これは美味い。して、坂井。お主、隙を見て逃げようとはしておらんだろうな」
タイミング見て、便所に行く振りしてそのまま逃げようと思ったのにバレてやがる。絶対に面倒ごとだろ、この人の話。あー、やだやだ。
旨そうにキュッと燗した酒を飲み込む永倉を見てそう思った。




