35話 兄思いの妹と修羅
台所の冷水で顔を洗い、水を飲んで戻ると部屋の机の上には丸の中に北と書かれた大徳利が置かれていた。
「あれ、徳利? 誰か来たのかな。まぁいいや、さてこのエロ小説を……」
どうやって処分するかと、言いかけたところで机の上に伏せておいた紙束が見当たらないことに気付いた。
その刹那、ぶわっと顔に脂汗が滲んだ。
机に駆け寄り、机の下から部屋の隅々まで探すがどこにもない。
「やばいやばい、あんなのが見られたら! 羞恥心で死んでしまうかもしれない! 誰だ、持っていた奴は」
部屋を意味もなくウロウロと歩き回る。
熊に追いかけられても、ジェーンに撃たれても、凜さんに殺気を中てられてもこんな嫌な汗はかかなかった。
「迂闊だった、あんな劇物を放置しておくなんて」
ふー、深呼吸だ、深呼吸しろ。
とにかく落ち着くんだ、俺。
俺の部屋に酒を持って訪ねてくる奴、そいつが犯人だ。
そう考えれば誰か絞れるはずだ、となれば遠藤さんはまず除外だ。
あの人が来るときは決まって麦茶とお菓子だ。
次にジェーンだ、アイツも除外でいい。
夜は毎日歓楽街に酒を飲みに行ってる。
凜さんから小遣い貰っているようだが足りないとか言ってたな、いい気なもんだ。
じゃあ、凜さんか? いや、彼女ならおそらくこの部屋で俺が帰ってくるのを待っているはずだ。
兄貴が女衒の元締めだというのに、やけにスレてなくて手下どもも彼女前では猥談を控えるほどだ。
イキった新入りが親分の妹だと知らずに彼女の尻を触った時なんて、そいつの首を掴んでそのまま宙に持ち上げていた。
……ほんと彼女じゃなくて良かった。
じゃあ、誰なんだ。
最近は夜になると結構な来客があるから特定できん。
料理やら新しいシノギやら恋愛相談やら、お前ら俺のことなんだと思ってんだ。
今から大部屋に行って聞いてみるか? いや、何を探しているのか聞かれるだろう。
アイツらのことだ、闇雲に動きまくって絶対大事になる。
ピンポイントで持って行った奴から取り戻さねばいかん。
少なくとも凜さんにバレる前には取り戻して焼かなければ、俺の命がいろんな意味で危ない。
机の上にある徳利を見ると、書かれている屋号は北口さんの所の酒だ。
北口さんの酒を贔屓にしてると知ってるのは源さんか、麻生君か、料理に熱心な奴らだけだ。
まず源さんから当たってみるか、確か部屋住みだったよな。
そう思ってランプを持ち障子を開けると、廊下には凜さんが立っていた。
「あら、お出掛けですか? 坂井様にちょっとお聞きしたいことがございまして、できれば少々お時間を頂きたかったのですが、お忙しいなら出直しましょうか」
彼女が訪ねてくるなんて珍しい。
ここで変に断れば疑われかねんな、仕方ない。
「いえ、取るに足らない用事ですよ。ささ、狭い男所帯ですがどうぞ」
「ふふ、もうすっかり自分の家みたいになってますのね、お邪魔いたします」
彼女は兄の誕生日に、俺が前に作ったスープカレーもどきを御馳走したいので料理を教えてほしいという思いやりのある相談だった。
自作のエロ本を盗んだ犯人捜しに行こうとしていた自分と比べてしまって崩れ落ちそうだったが、今度一緒に買い物から料理まで付き合うということになった。
そのあとは未来の女性の服装から政治体制の話まで、聞かれるがまま広く浅く話していると夜も更けたということで彼女は帰っていった。
この時間から源さんを訪ねるのはちょっと常識に欠けるな。
あー、もう。酒飲んで今日は寝ちまうか。
机の上に鎮座している大徳利を取ると栓を抜き、そのまま口をつけて飲み込んだ。
◇
翌朝、井戸の側で歯を磨いていると大部屋の障子が開き、ぞろぞろと幽霊のように目の下にクマを作ったやつらが出てきたのが見えた。
ふらふらしてるけど大丈夫か、アイツら。
怪訝な顔で見ていると俺に気付いた数人が裸足のまま駆け寄ってきて、さっきとはうって変わって興奮した顔で「おはようございます、先生!」と話しかけてきた。
「ちょっと、待とうか。なんだその、先生って」
「続きはいつ書かれるんですか! もう、続きが気になって寝られませんでしたよ」
「まさか新選組があんなことになっているとは……うっ、思い出しただけで鼻血が」
「おおぉん! 永倉と良い仲だったのに、土方歳三許すまじ! でも恰好良すぎる! 先生お願いします、続きを!」
あー、これは。
やばい。
絶対こいつらあれ見ただろ、物語の前半にノリノリで池田屋襲撃でのチャンバラを書いたのも悪かったか。
半分少年漫画みたいなもんだし、活劇とエロの二段構えはこいつらの脳を焼くには十分な劇薬になってしまったようだ。
「……見たものは今どこにあるか分かるか? 大部屋に持ち込んだ奴は誰だ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
今まで浮かれていた奴らが姿勢を正して「昨日の夜に麻生が……」と声を絞り出すように呟いた。
あんのクソガキ! 恩を仇で返しやがって!
見つけたらタダじゃおかねぇ。
「それで、その麻生はどこだ。庇い立てするとためにならんぞ」
奥歯を噛み締め熱い息を吐く俺に、怯えたような表情のまま門を指差した。
「へ、へい、それが兄の所に持っていくとかなんとか言ってやした」
兄、ふーん、兄ね。
お前、死にたいんか。




