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銀狼ハクの再起動

 修復工房が軌道に乗り始めて三日目の夜、私は共同倉庫の奥で奇妙な箱を見つけた。


 もとは備品庫だったらしい薄暗い部屋の、さらに棚の陰。埃をかぶった木箱は金具が複雑に組まれ、蓋には見慣れない紋章が刻まれている。星でも花でもない。三つの線が中央で結ばれた、継ぎ目のような意匠。


「……どこかで見たわね」


 私はランタンを近づけた。


 思い出した。母の遺品箱に入っていた銀の鍵、その柄と同じだ。


 どうしてこんな場所にあるのか。偶然とは思えない。胸が騒いで、私は周囲を見回した。夜の倉庫にいるのは私だけだ。ユリアには先に休むよう言ってあるし、工房の片づけも済んでいる。だからこそ、今のうちに確かめたかった。


 私は懐から銀の鍵を取り出し、箱の錠へ差し込んだ。


 ぴたり、と吸い込まれるように収まる。


「やっぱり」


 鍵を回すと、古い機構がかちりと鳴った。箱の内側から、乾いた風が漏れる。私はそっと蓋を持ち上げる。


 中に入っていたのは、銀色の狼だった。


 いや、正確には狼を模した機械だ。子犬ほどの大きさ。金属の毛並みは薄く刻まれ、関節は精緻に組まれ、胸元には青白い石が埋め込まれている。けれどその右前脚は外れ、胴体の側面には大きな裂け目が走っていた。長い時間、眠っていたのだろう。埃の下からでも、美しかった。


「……すごい」


 思わず呟く。


 前の人生でも古い機械仕掛けの修復に立ち会ったことはある。でもこれは次元が違う。部品の噛み合わせがあまりにも自然で、まるで生き物の骨格みたいだ。


 私は箱の中をさらに探った。底には薄い金属板が一枚、折りたたまれている。広げると、古い書体で短い文が刻まれていた。


『灰冠城補助機関・導獣一号。継承鍵との同調により起動』


 導獣。


 補助機関。


 城の何かに関わる存在なのだろうか。


「だったら……試してみるしかないわよね」


 私は銀狼をそっと作業台へ乗せた。右前脚の軸は折れていない。ただ、受け金具がずれ、内部の細い導線が切れている。胴体の裂け目も、外装だけでなく内側の骨格に達していた。


 完全修復は難しい。けれど起動だけなら――。


 私は深く呼吸し、両手をそっと金属の身体へ添えた。


 冷たい。けれど、死んではいない。内部にごく微かな魔力残滓がある。まるで、長い眠りの底で呼吸を待っているみたいに。


「目を覚まして」


 修復魔法を流し込む。


 銀の毛並みに沿って淡い光が走り、裂け目がゆっくり閉じていく。外れた前脚が正しい位置へ吸い寄せられ、切れていた導線が継がれる。胸元の石が、ひとつ明滅した。


 その瞬間、銀狼の目が開いた。


 青い光だった。


『――起動確認。認証を開始します』


 低く澄んだ声が、倉庫に響く。


 私は驚きのあまり一歩下がった。銀狼はゆっくりと起き上がり、金属音ひとつ立てずに着地する。尾が一度だけ揺れ、光る目がまっすぐ私を見た。


『継承鍵を確認。魔力波形照合。イリス・グレイヴェル系統――後継個体を認証しました』

「え、ええと……私はリディア・エーデルフェルトです」

『認証名を更新。リディア・エーデルフェルト管理継承者、登録完了』


 管理継承者。


 その言葉に背筋が伸びる。冗談ではなく、この狼は本当に城の機構に関わっているのだ。


「あなた、何ができるの?」

『案内、警戒、記録保全、簡易補修補助、灰冠城グレイヴォール管理系統への接続』

「最後のが一番大事そうね」

『肯定』


 銀狼はこくりと首を縦に振った。機械なのに妙に愛嬌がある。


 私は思わず笑った。


「名前はあるの?」

『導獣一号』

「それは呼びづらいわ。ハクでどう?」

『承認。名称ハクを登録』


 返事が早い。


 その時、倉庫の扉が開いてユリアが飛び込んできた。


「お嬢様! まだこちらに――……え?」


 彼女の視線が私の足元で止まる。ハクは青い目を瞬かせ、ぺたりと座った。見た目だけなら、精巧すぎる置物にも見えなくはない。


「……狼?」

「機械の狼みたい」

「なぜ増えているのです?」

「倉庫で見つけたの」


 説明になっていないと自分でも分かったが、ユリアは数秒黙ったあと、疲れた顔で額を押さえた。


「お嬢様が倉庫へ一人で行くと、だいたい何か増えますね」

「今回はかなり役に立ちそうよ」

『役立ちます』


 ハクが即答し、ユリアが硬直する。


「しゃべった」

「しゃべるわ」

「狼が」

「機械の」

「そういう問題では……」


 そこへ、さらに足音が近づいてきた。レオンハルトだ。彼は扉の前で止まり、ハクを見た瞬間だけ、明確に表情を変えた。


「導獣か」

「ご存じなのですか」

「伝承でだけな。実物は初めて見る」


 彼はゆっくり倉庫へ入り、ハクの周囲を一周するように眺めた。ハクもまた、レオンハルトを見上げている。


『グレイヴェル現当主、確認』

「俺も認識するのか」

『管理系統優先保護対象です』

「便利そうだな」

『便利です』


 また即答だ。私は少し吹き出した。


 レオンハルトは箱の中に残っていた金属板を拾い上げ、目を細める。


「灰冠城の古い補助機構なら、地下へ繋がる情報を持っているかもしれない」

「地下?」

「城の下には旧施設があると聞く。だが入口が失われている」


 私はハクを見た。


「案内できる?」

『限定的に可能。城内地図の一部を保有。深部権限は未解放』


 深部権限。


 また不穏で魅力的な言葉が出てきた。


「どうやったら解放されるの?」

『管理継承者の追加認証、および城核接続が必要です』

「城核」

『灰冠城中枢機関』


 私とレオンハルトはほぼ同時に顔を見合わせた。


 水塔、共同挽き場、修復工房。ここまでは暮らしの再建だった。けれどこの先には、もっと根の深い何かがある。母が私を北へ導いた理由も、もしかしたらそこに繋がっているのかもしれない。


「……とりあえず」


 私はしゃがみ込み、ハクの頭を撫でた。金属なのに、ひやりとして気持ちいい。


「今夜は私の部屋に来る?」

『承認。護衛任務を開始します』

「護衛までできるの?」

『可能』

「では、寝台には乗らないこと」

『努力します』


 努力。


 ユリアがものすごく嫌そうな顔をした。


 その夜、灰冠城に新しい住人がひとり増えた。銀色の小さな狼。けれど私には直感があった。この子は、きっとただ可愛いだけでは終わらない。


 壊れた城の奥へ繋がる鍵。


 ハクはその最初のひとつだった。


 その夜、私は灰冠城グレイヴォールの客間と工房のあいだの冷たい回廊でしばらく足を止めた。石の壁は相変わらず冷たいのに、どこかで誰かが動いている気配だけは、少しずつ城の内部に熱を増やしていた。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、小さな足音と木製の玩具がぶつかる軽い音のような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。


 私は一日の作業で汚れた指先を眺めながら、直せたものと、まだ手が届かないものを頭の中で並べ直した。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。


 まだ誰の信頼も充分には得ていない。けれど、直したものが目の前で働き始めるたびに、ここでなら自分の手を価値に変えられるかもしれないと思えた。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。


 私が今見ているのは、小さな足音と木製の玩具がぶつかる軽い音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。誰かを守るための名目が、次には関係そのものの形を変えていく。そういう危うさと安心が同時に来る。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。

読んでくださってありがとうございます。続きは『王都からの使者と、母の契約書』です。次話もよろしくお願いします。

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