工房はじめます
水塔と共同挽き場が動き始めると、次に困ったのは“誰が何をどこまで直せるか”が分からないことだった。
灰冠城には壊れたものが多すぎる。戸車、窓枠、鍋の持ち手、荷車の車輪、門の閂、兵の胸当て、子どもの靴底。全部が少しずつ傷んでいて、全部が少しずつ暮らしを重くしている。なのに、その修繕依頼がどこへ行けばいいのか曖昧だった。
「なら、窓口を作るしかないわね」
私は朝食の席でそう言った。
向かいにいたニコが首を傾げる。
「窓口、ですか?」
「ええ。修理したい物を集めて、優先順位をつけて、できるものから回す場所」
「そんな余裕、ありますかね」
「ないから必要なの。皆が個別に困って、個別に我慢していたら、どこから手をつければいいか永遠に分からないでしょう」
マルタがパンをちぎりながら唸る。
「確かに、城だけでも言い出したらきりがないし、町の連中まで来たら大騒ぎだね」
「だから整理します。帳簿はニコ、簡単な金具はニナと鍛冶場、木工はドルフさんに相談、私が全体を見る」
「俺も巻き込まれてるな……」
ニコはそう言いながらも、少し楽しそうだった。
場所に選んだのは、共同倉庫の一角にある空き部屋だった。窓は小さいが、出入りしやすく、表へ面している。私はそこを仮の“修復工房”にすると決め、まずは自分で壊れた棚を直し、机を運び込み、依頼品を置くための札箱を作った。
札箱、といっても立派なものではない。木箱に投入口を開け、ニコに書いてもらった紙を貼るだけだ。
『こわれたもの なおしたいもの こまっていること ここへ』
「すごい直球ですね」
「分かりやすさが一番よ」
「貴族の言葉ではないですね」
「辺境用に調整中なの」
昼前、試しに開けてみると、最初に入ったのは城の兵からの依頼だった。壊れた革鞘。欠けた飯椀。雪道用の靴金具。続いて、町の子どもが片輪の取れた玩具を持ってきた。
「これも、いいの?」
緊張した声でそう言われ、私は思わずしゃがみ込む。
「もちろん。むしろ得意よ」
前の人生で、展示用の小さな玩具や人形の修復をしたことがある。大きな文化財より、触れる人の気配が近い分だけ、好きな仕事だった。
私は車輪の軸を見て、小さく笑った。
「これはすぐ直るわ」
「ほんとに?」
「ええ。でも代わりに、お名前を教えて」
「……トオル」
「ありがとう、トオル。終わったら一番に呼ぶわね」
そのやりとりを見ていた町の女たちが、少しずつ部屋へ入ってくる。片取っ手の外れた鍋。ずれた戸車。ひびの入った水差し。どれも大仕事ではない。けれど放っておくと毎日が少しずつ不便になるものばかりだった。
「こんなの、わざわざ頼むほどじゃないと思ってたんだけど」
「わざわざ頼んでください」
私は手を止めずに答える。
「小さな困りごとほど、積もると大きいでしょう」
「……変な令嬢さんだね」
「悪役令嬢だそうです」
「誰が言ったんだい」
「王都の人たち」
「見る目ないね」
そう言って笑われた。
午後には、工房の中が思った以上に賑やかになった。ニコが受付の真似事をしながら「優先度」「必要材料」「依頼主」を書き、ニナが金具の仕分けをし、クララが「パン窯の取っ手は最優先!」と口を挟む。マルタはいつの間にかお茶を持ってきてくれた。
私は手を動かしながら、少しずつ仕組みを作っていく。
「修復魔法は私しか使えないけれど、全部を私がやる必要はないわ」
「どういう意味です?」
ニコが帳簿から顔を上げる。
「壊れ方を見て、順番を決めて、必要なところだけ私が継ぐ。あとは鍛冶も木工も、できる人に任せるの。そうすれば早いし、私が倒れても回る」
「倒れる前提やめてください」
「経験則よ」
「いやな経験則ですね……」
その時、工房の入口で低い声がした。
「随分と騒がしいな」
「レオンハルト様」
彼は部屋の中を見回し、積まれた依頼品と、慌ただしく動く皆を見て眉を上げた。
「何を始めた」
「修復工房です」
「見れば分かる。なぜこんなに人がいる」
「困っていたからです」
私がそう答えると、彼は一瞬黙った。それから、子どもの玩具を持ったままの私の手元を見る。
「それも修復対象か」
「ええ。大事でしょう」
「……そうか」
彼は何か言いかけて、やめた。代わりに、入口の脇へ立て掛けてあった古いランタンを指差す。
「それも頼めるか」
「ランタン?」
「夜回り用だ。芯座が歪んで火が安定しない」
「もちろん」
私は受け取ったランタンを光にかざした。真鍮の縁がひしゃげ、留め具の一部が欠けている。よく使われた道具だ。
「これはすぐ直ります」
「急ぎではない」
「でも夜には使いたいのでしょう?」
「……察しがいいな」
それだけ言って、彼は少し口元を緩めた。
工房が閉まる頃には、依頼票が二十枚を超えていた。多い。正直に言えば、少し怖いくらいだ。でも同時に、それだけこの町には“直れば良くなるもの”が残っているということでもある。
夜、帳簿を整理しながら、ニコがぽつりと呟いた。
「こういうの、初めて見ました」
「何が?」
「町の人が城へ来て、何かを諦めない顔をしてるの」
私は手を止める。
王都では、城は見上げる場所であって、自分の困りごとを持ち込む場所ではない。けれど灰冠城は違うのかもしれない。違う城に、できるかもしれない。
「じゃあ、続けないとね」
「はい」
返事をしたニコの声は、少しだけ誇らしそうだった。
壊れたものを直す工房。
それは私の居場所であると同時に、この町の呼吸を整える場所になり始めていた。
片づけが一段落してから、私は自然と灰冠城の客間と工房のあいだの冷たい回廊へ足を向けていた。石の壁は相変わらず冷たいのに、どこかで誰かが動いている気配だけは、少しずつ城の内部に熱を増やしていた。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも工具箱の留め金と、使い込まれた作業台の木目のような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は一日の作業で汚れた指先を眺めながら、直せたものと、まだ手が届かないものを頭の中で並べ直した。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
まだ誰の信頼も充分には得ていない。けれど、直したものが目の前で働き始めるたびに、ここでなら自分の手を価値に変えられるかもしれないと思えた。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、工具箱の留め金と、使い込まれた作業台の木目のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。遊びのような顔をして、城の古い記憶が次の扉を叩きに来る気がしていた。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は『銀狼ハクの再起動』です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




