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王都からの使者と、母の契約書

 ハクが来てから、灰冠城グレイヴォールの夜が少しだけ賑やかになった。


 廊下を金属の足音がちょこちょこ走り、見回りの兵をつかまえては『巡回経路、非効率』と辛辣な評価を返し、ユリアには『就寝時刻を超過しています』と真顔で注意する。見た目は可愛いのに、中身は案外容赦がない。


「お嬢様、この子、本当に狼ですか」

「狼型機構らしいわ」

「機構でもなんでもいいですが、夜中に目が光るのは心臓に悪いです」

『光量は調整可能です』

「そういう問題ではありません」


 そんなやりとりが続いた翌朝、工房の前へ早馬が止まった。


 灰色ではなく、王都式の濃紺の制服。胸元には公爵家の紋章。


「来たか」


 レオンハルトが短く言う。私は依頼品の札を置き、外へ出た。


 馬から降りたのは、ガーネット執事長ではなく、父の法務官補佐だという男だった。痩せた顔、細い口ひげ、書類箱を抱えた手元まで几帳面そうな人物。彼は私を見るなり深く一礼する。


「リディア様。旦那様より、正式な通達を預かっております」

「父上から?」

「はい。ならびに、王都ルミエルへ速やかにご帰還いただくよう――」

「お断りします」


 口上が終わる前に断ると、法務官補佐はさすがに目を瞬かせた。


「最後までお聞きになりませんか」

「聞いても結論は同じです」


 私はハクを抱き上げた。彼がいると不思議と落ち着く。


『外部訪問者。声帯振動より緊張を検知』

「ありがとう、今は静かにしていて」

『承認』


 法務官補佐の視線がハクへ釘付けになる。説明したくないので、そのまま無視した。


「帰還命令の理由は何ですか」

「婚約破棄に伴う家内整理、名誉回復手続き、ならびに今後の処遇決定のため」

「名誉を回復する気が父上に?」

「……書面上は、そのように」


 正直でよろしい。


 私は法務官補佐が差し出した文書を受け取った。丁寧な文面の中身は要するに、“勝手な行動をやめて王都へ戻れ。灰冠城に関する権利は公爵家が一括して管理する”という話だった。


「こちらは受領しません」

「しかし」

「代わりに、これをお持ち帰りください」


 私は母の契約書の写しを取り出し、必要な箇所だけを示した。


「イリス・グレイヴェルと王家・エーデルフェルト公爵家の三者契約。灰冠城付近旧相続地の管理継承権は、イリスの第一子が成人した時点で協議開始とある。私はすでに成人しています」

「その文言は解釈の余地が――」

「ありますね。ですが“公爵家が当然に単独継承する”とは書かれていません」


 男は書面を食い入るように見た。額に汗がにじむ。


「写しだけでは」

「原本の所在を確認するためにも、私はここを動けません。ここで見つかるかもしれませんので」

「そんな……」

「それと」


 私は一歩踏み出した。


「父上にお伝えください。私は灰冠城グレイヴォールの仮管理を開始し、水塔と共同挽き場を復旧させました。城下の修復工房も開設済みです。旧領が“価値のない死に地”であるという認識は、現状と一致しておりません」

「仮管理、ですって?」


 法務官補佐の声が裏返る。無理もない。王都の公爵令嬢が、辺境で工房を始めた挙句、死に領の価値を主張しているのだから。


 レオンハルトが横から口を挟んだ。


「事実だ。俺が証人になる」

「辺境伯閣下まで……!」


 男は半ば泣きそうな顔になった。


 だが、ここで引くわけにはいかない。王都は一度握ったものを離したがらない。しかも父は、母の契約を長く伏せてきた。灰冠城に何かあると知っていた可能性が高い。


「なお、今後のやり取りは書面でお願いします」


 私は続ける。


「口頭伝達は誤解を招きますので」

「……承知、しました」


 法務官補佐はうなだれたまま書類を抱え直した。可哀想ではある。だが彼は彼で仕事をしているだけだ。ならば私も仕事をする。


 彼が帰る直前、ニコがこっそり私の袖を引いた。


「これも渡しますか」

「何?」

「昨日までの修復工房の依頼票と、対応表。数字があった方が説得力が」

「……あなた、優秀ね」

「褒められると頑張ります」


 私は思わず笑い、依頼票の写しも書類箱へ差し込ませた。水塔仮復旧、共同挽き場稼働、依頼件数、対応済み件数。地味だが、事実は強い。


 法務官補佐が去った後、工房の前でニナが腕を組む。


「王都って、いちいち面倒くせぇな」

「ええ。でも、面倒だからこそ数字と書面で殴るの」

「お嬢様、言葉が悪くなってます」


 ユリアの指摘は正しかった。


 昼過ぎ、ハクがふいに耳を立てた。


『追加情報。倉庫奥、未確認封緘物あり』

「まだあるの?」

『昨日の探索では優先度低と判定。本日更新』


 私は思わずレオンハルトを見る。彼も同じことを考えている顔だった。


「行くか」

「ええ」


 案内されたのは、母が使っていたらしい古い執務室の裏だった。今は物置同然になっているが、壁の一角だけ石の継ぎ方が微妙に違う。私はそこへ手を当てる。隠し棚だ。


 修復魔法で噛み合わせを戻すと、壁板が静かに開いた。


 中には、帳面が三冊と封筒が一通。


 帳面は収支記録だった。灰冠城の修繕予算、冬備蓄、南から送られるはずだった資材、そして――“公都差し止め”の赤い印。何度も、何度もだ。


「……意図的に止められている」


 私はページをめくる手を止めた。


「母上の時代から?」

「少なくとも、この帳面ではそう見える」


 レオンハルトの声は低い。


 封筒の差出は母、宛先は王都の父ではなく、ルドルフ王本人だった。開封はされていない。私は躊躇ったが、今ここで読むべきだと分かった。


『灰冠城の維持費差し止めが続けば、北辺は“切り捨て可能な土地”になります。そうなれば黒霧は必ず戻ります』


 そこで、背筋が冷えた。


 黒霧。


 この城へ来てから何度か耳にした、不穏な言葉。魔獣災害のようなものだとだけ聞いていたが、母はそれを知っていて、王へ警告していたのだ。


 ページの最後には、追記があった。


『もしこの手紙を読むのが私の娘なら、どうか灰冠城の中枢を探して。ここは捨てていい土地ではない』


 私はそっと目を閉じた。


 水塔や工房で忙しくしている間にも、もっと大きな話が足元で動いている。


 王都が灰冠城を取り戻したがる理由。母が私を北へ導いた理由。黒霧とやらの正体。


 そのどれもが、まだ見えていない。けれど、はっきりしたことが一つある。


 私はもう、ただの追放令嬢では終われない。


 この城には、守る理由がある。


 少し時間を置いてから、私は灰冠城グレイヴォールの客間と工房のあいだの冷たい回廊へ戻った。石の壁は相変わらず冷たいのに、どこかで誰かが動いている気配だけは、少しずつ城の内部に熱を増やしていた。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。


 私は一日の作業で汚れた指先を眺めながら、直せたものと、まだ手が届かないものを頭の中で並べ直した。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。


 まだ誰の信頼も充分には得ていない。けれど、直したものが目の前で働き始めるたびに、ここでなら自分の手を価値に変えられるかもしれないと思えた。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。


 私が今見ているのは、磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。誰かを守るための名目が、次には関係そのものの形を変えていく。そういう危うさと安心が同時に来る。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。

読んでくださってありがとうございます。今回はここで一区切りです。次話は『契約婚約という防壁』になります。よろしければ評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。

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