契約婚約という防壁
第二部です。灰冠で築いた足場が、少しずつ外へ広がっていきます。
王都からの使者が帰ったその日の夕方、レオンハルトは私を執務室へ呼んだ。
机の上にはいつもの報告書に混じって、封蝋のない簡素な書面が二枚並んでいる。窓の外では、灰冠城の夕暮れが石壁を青く染めていた。寒い土地の夕方は、きれいだが短い。
「悪い知らせだ」
開口一番、それだった。
「父上の使者の件?」
「それもあるが、それより早い」
レオンハルトは一枚目の書面を私へ差し出した。辺境伯領の伝令網で拾った情報らしい。そこには、王都で“婚約破棄された元王太子妃候補が北辺へ逃亡し、辺境伯と結託して旧領を不法占拠した”という噂が出回り始めていると書かれていた。
「ずいぶん話が盛られてますね」
「噂はそういうものだ」
「結託はしているかもしれませんが」
「自覚があるのか」
「少なくとも水塔は一緒に直したでしょう」
私が返すと、レオンハルトは額を押さえた。最近よく見る仕草だ。おそらく、私が王都式の遠回しな返事をしないせいだろう。
「問題はそこじゃない」
「承知しています」
「お前の父親は、お前を“保護対象”として回収したい。王都がそれを認めれば、こちらにいる間にどれだけ結果を出しても関係なくなる」
「法的には曖昧なまま力で押し切る、と」
「平たく言えばそうだ」
私は黙って書面を机へ戻した。父ならやる。私が灰冠城で多少役に立ったところで、王都の一言で“感情的な暴走”にされれば終わりだ。母の契約書も、裁判の席へ持ち込まれる前に潰されるかもしれない。
「何か手がありますか」
「ある」
レオンハルトは二枚目の紙へ手を置いた。
「契約婚約だ」
「……はい?」
一瞬、本当に意味が分からなかった。
「俺とお前が婚約する。正式な婚姻ではない。領地防衛および旧グレイヴェル系相続地管理の安定を目的とした、期限付きの契約だ」
「そんな、商会同士の共同事業みたいな言い方で」
「本質は近い」
さらりと言われ、私は思わず黙り込んだ。
確かに理屈は分かる。王都の未婚貴族女性を父が回収しようとするのは容易い。だが、他領の有力貴族と婚約しているとなれば話は別だ。しかも相手が北辺グレイヴェル辺境伯。軍事的にも政治的にも無視しにくい。
「……つまり、父上や王都に“もう個人ではない”と示すための防壁」
「そうだ」
「私の評判が更に荒れますよ」
「今さら気にする段階か?」
「気にはしませんが、事実確認として」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「俺の評判も十分悪い」
「それは王都の方が勝手に怖がっているだけでは」
「怖がられている自覚はある」
「私は今のところ怖くありません」
「それも自覚している」
会話が妙に自然に続くのが悔しい。けれど、提案自体は冗談ではない。むしろ、現実的すぎる。
私は紙を手に取った。簡潔な条文が並んでいる。互いの権利主張を尊重すること。灰冠城の運営安定を優先すること。どちらか一方の恣意で破棄しないこと。期限は一年、あるいは目的達成まで。
「よくできていますね」
「イザークとニコがたたき台を作った」
「本人ではないんですね」
「こういうのは不得手だ」
「少し安心しました」
正直な感想を言うと、レオンハルトは珍しく咳払いをした。
「嫌なら断っていい」
「断ったら?」
「別の手を考える」
「あります?」
「……考える」
ないのだろう。
私は書面を置き、窓の外を見る。薄暮の城。修復工房の灯り。水塔の影。私がここで始めたものは、まだ小さい。けれど、守らなければ簡単に潰される。
「条件があります」
私がそう言うと、レオンハルトは顎を上げた。
「何だ」
「契約である以上、私にも発言権をください。灰冠城の運営、工房、人の出入り、王都との書面交渉。少なくとも私の仕事に関わる部分は、辺境伯の婚約者という飾りではなく、当事者として扱ってほしい」
「最初からそのつもりだ」
「なら、もうひとつ」
「まだあるのか」
「あります」
私はまっすぐ彼を見る。
「期限が来たら、私がここに残るか去るかを、自分で決められるようにしてください」
「父親のところへ戻らない保証はないぞ」
「戻りたいと思うような働き方をしていないと思いたいです」
「随分な言い方だな」
「率直に申し上げています」
短い沈黙のあと、レオンハルトはふっと息を吐いた。
「いい」
「では」
「契約する」
その返答が、やけに静かに胸へ落ちる。
契約婚約。感傷の余地がない、実務的な関係。けれど妙に、しっくりもきた。少なくとも王都で結ばれる婚約よりずっと、私は納得している。役割が明確で、目的が共有されていて、互いの意思で結ぶのだから。
問題は、周囲の反応だ。
その晩の食堂は、ちょっとした騒ぎになった。
「はあ!?」
最初に声を上げたのはニナだった。次にマルタ、続いてクララ、最後にニコが椅子から落ちかけた。
「契約婚約って何それ」
「字のままです」
「聞いてねえよ!」
「今言いました」
私が答えると、マルタが頭を抱えた。
「坊……じゃなかった、閣下。あんた、また雑なことを」
「必要だからだ」
「必要でももうちょっとこう、情緒とか段階とか!」
「辺境にそんな余裕はない」
レオンハルトの返答はいつもどおりで、皆そろって深いため息をついた。
その中で、ユリアだけはじっと私を見ていた。
「お嬢様は、それでよろしいのですか」
「ええ。私が決めたわ」
「……そうですか」
彼女は少しだけ眉を寄せ、それから小さくうなずいた。
「では、婚約者らしく見える外套でも用意しましょうか」
「婚約者らしい外套って何かしら」
「知りません。でも寒いので必要です」
あまりにも現実的で、私は吹き出した。
翌日には、灰冠城と城下町へ正式に話が回った。反応は様々だった。兵たちは「なら王都もすぐには手を出せない」と頷き、町の女たちは「氷狼辺境伯にも春が」と勝手に盛り上がり、子どもたちは「お姫さまになるの?」と訊いてきた。
「もう十分ややこしい肩書きだから増やさないでほしいわ」
『名称追加候補:灰冠の花嫁』
「却下」
『承認』
ハクの提案まで飛び出し、私は頭を抱えた。
それでも、城の空気は前向きだった。
契約だろうと何だろうと、外から押し潰されるよりいい。その現実を皆が分かっている。
夜、執務室で書面へ署名する時、私はふと手を止めた。レオンハルトの名はすでに書かれている。力強い、飾りのない字。
「どうした」
「いえ。ただ……」
私は自分の名前をその隣へ記した。
「前の婚約の時より、ずっと自分で書いている気がして」
「前は違ったのか」
「ええ。あれは、決められていたものだから」
羽ペンを置く。インクが乾くまでの短い時間が、やけに長く感じた。
契約でしかない。
でも、これは確かに私が選んだ一歩だった。
片づけが一段落してから、私は自然と見張り灯の揺れる夜の回廊へ足を向けていた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。善悪の札を剥がした先で、ようやく一人の人間の言葉が聞こえてくるはずだ。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
お読みいただきありがとうございます。続きは『聖女ミレイユは怯えている』になります。よろしければ次話もお付き合いください。




