聖女ミレイユは怯えている
契約婚約の話が落ち着くより早く、次の厄介ごとはやって来た。
雪混じりの風が城門を叩く午後、薄青の外套を着た若い女性が護衛二人とともに灰冠城へ現れたのだ。白いフードの下から覗く金糸のような髪。私はその横顔を見た瞬間、息を止めた。
「ミレイユ様……?」
星灯祭の夜、壇上で震えていた聖女候補。
彼女は私を見るなり、一歩だけ後ずさった。怯えた目。その反応が、逆に私の警戒心を下げる。この人は、敵として来たのではない。追い詰められて来たのだ。
「どうしてここに」
「に、逃げて……きました」
声はひどく掠れていた。
応接室へ通すと、彼女は温かい茶を両手で抱え込んだまま、しばらく何も話せなかった。肩が細かく震えている。ユリアがそっと毛布を掛け、マルタが甘い焼き菓子を置くと、ようやくミレイユは少しだけ顔を上げた。
「ごめんなさい」
「何についての謝罪ですか」
「全部……」
彼女は唇を噛みしめる。
「星灯祭のことも、王都で流れている噂も、わたしが止められなかったことも」
「あなたが流したのではないでしょう」
「でも、わたしがそこにいたから」
責任感というより、刷り込まれた罪悪感のような言い方だった。
私はレオンハルトと視線を交わす。彼は壁際に立ったまま黙っていた。口を挟むつもりはないらしい。
「ミレイユ様」
私はできるだけ静かな声で言った。
「まず確認したいのですが、あなたはあの夜、私を断罪したかったのですか」
「そんなわけありません!」
彼女はほとんど悲鳴のように答えた。白い指が茶杯をぎゅっと握りしめる。
「わたし、ただ呼ばれて、壇上へ立って、殿下が急に……。止めようとしたけど、大神官様に“聖女は黙って見守りなさい”って」
「大神官セルヴァン」
「……はい」
やはり、あの人が噛んでいる。
「それで、どうしてここへ?」
「星殿の部屋に戻ったら、鍵を外から掛けられました」
部屋の空気が変わる。
「お嬢様に言われた通り、窓辺には近づかなかったんです。でも夜中に、廊下で誰かが“次は失敗するな”って……。怖くて、朝になってから、いつも花を届けてくれる下働きの女の子に頼んで裏口から……」
逃げてきた、というわけだ。
私は彼女の胸元を見た。星型の聖女徽章は外されている。代わりに首筋に、薄く赤い痕があった。金具の擦れだけではない。何かを強く押し当てられた跡だ。
「触ってもいいですか」
「……はい」
私はそっと首筋へ手をかざした。微かな違和感。皮膚そのものではなく、魔力の流れに淀みがある。まるで、無理やり印を刻もうとしたような。
「やっぱり」
星灯祭の夜に見た、徽章の裏の黒い汚れ。髪飾りの留め具の染み。偶然ではない。誰かが、ミレイユの持ち物に呪墨を使っていた。そして本人の首にも。
「どうですか」
「あなた、聖女の力を安定して使えますか」
「……うまく、使えません」
彼女はうつむいた。
「祈ると、時々すごくきれいに光るんです。でも、たくさん祈ろうとすると胸が苦しくなって、頭が痛くなって、終わった後に物が割れたりすることがあって」
「割れる?」
「杯とか、窓とか、燭台とか……」
私は無意識に手を握りしめた。星灯祭の魔導硝子が落ちたのも、彼女の周囲の不安定な魔力が引き金になったのかもしれない。だが原因は彼女ではない。流れを歪めている“何か”がある。
「大神官様は“それは聖女の試練だから黙って耐えろ”って」
「便利な言葉ですね」
「リディア様」
「失礼しました。でも、その言い方は誰かを黙らせる時のものです」
ミレイユは目を見開き、それから少しだけ泣きそうに笑った。
「そう、ですよね……」
「あなたはここで休んでください」
「でも、わたしがいると迷惑が」
「もう十分面倒は抱えているので、一つ増えても大差ありません」
「慰めになってるのか分かりません」
「本音です」
私が答えると、レオンハルトが小さく咳払いした。笑いを堪えている時の反応だと、最近少し分かってきた。
「保護するのか」
彼は短く訊く。
「します」
「王都が騒ぐぞ」
「騒がせておけばいいでしょう。聖女候補が逃げてきた理由を問われるのは、こちらではなく向こうです」
ミレイユが慌てて顔を上げる。
「わ、わたし、ちゃんと働きます。掃除でも洗い物でも」
「聖女候補にまず掃除をさせる辺境って何なのかしら」
「辺境だな」
レオンハルトが平然と答え、私は少しだけ肩の力を抜いた。
その晩、ミレイユはユリアと同じ部屋で休むことになった。寝る前にハクが彼女の足元を一周し、『敵意なし。高ストレス状態』と診断して、ますます緊張させていたけれど。
私は自室へ戻る前に、応接室に残された茶杯を見た。縁に微かな黒い滲みがある。洗っても落ちない類の、魔術的な染み。
やはり、彼女は使われていた。
聖女として祭り上げられ、その不安定さすら誰かの都合よく利用されている。
「レオンハルト様」
廊下で待っていた彼に、私は小声で言う。
「ミレイユ様を守るのは、灰冠城を守ることにも繋がります」
「理由は」
「彼女の不安定な祈りと、母の手紙にあった黒霧。それから灰冠城の中枢。全部、どこかで繋がっている気がするから」
彼は少し考え、頷いた。
「俺もそう思う」
「……簡単に信じますね」
「お前が“気がする”と言う時は、大抵すでに何か見てる顔をしてる」
不意打ちだった。
私は返事に困って黙り込む。そんな顔をしているつもりはなかったのに、案外見られているらしい。
「明日、ミレイユの持ち物を全部調べろ」
レオンハルトはそれだけ言って歩き出した。
私はその背中を見送りながら、胸の奥に新しい責任の形が生まれているのを感じていた。
灰冠城に来た時は、自分の居場所を確保するだけで精一杯だった。
でも今は違う。ここへ流れ着くものを、守りたいと思っている。
その夜、私は見張り灯の揺れる夜の回廊でしばらく足を止めた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、窓に映る星明かりや硝子の冷たい反射のような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、窓に映る星明かりや硝子の冷たい反射のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。過去は過去のままでは終わらず、次の回ではもっとはっきり現在へ手を伸ばしてくる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は『鏡が映す母の記憶』です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




