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灰冠薬草園

 診療室ができると、次に足りなくなったのは薬草だった。


「乾燥した葉と根だけでは限界があります」

 セシリアは帳面を見せながら言った。

「特に冬場は、咳止めと熱冷ましが不足します。交易に頼るだけでは、道が閉ざされたときに困る」

「つまり、自前で育てる必要があるのね」

「そういうことです」


 温室の増設はすでに慣れた仕事だったが、今回は少し勝手が違った。野菜ではなく、温度と湿度の細かな管理が必要な薬草が相手だからだ。私は古い採光窓を磨き、細い水路を引き、ハクに温度記録を任せる。


『過湿です』

「まだ植えていないでしょう」

『準備段階の怠慢は後日の損失を招きます』

「言い方がマルタに似てきたわね……」


 種と苗は、ミレイユが星殿の温室から分けてもらったものと、フェリクスが西方から送ってくれたものが半分ずつ。小さな鉢に並んだ緑は、見ているだけで心が落ち着いた。


 初日は、誰もが半信半疑だった。

 兵たちは「草でそんなに変わるのか」と首を傾げ、クララは「食べられない畑に手間をかけるなんて」と笑う。けれどセシリアは実に淡々としている。


「食べ物も薬も、結局は明日のための備えです」

「ずいぶん似た言い方をするのね」

「修復師の隣にいると、考え方がうつるんでしょう」


 薬草園が形になったころ、最初の患者は子どもの咳だった。

 夜になると苦しそうに息をする小さな男の子に、セシリアが煎じた薬を飲ませ、寝具を替え、部屋の風を通す。私は寝台の軋みを直し、窓枠の隙間を塞いだ。

 数日後、その子は走って市場へ出て行った。


「薬が効いたんだ」

 母親が何度も頭を下げる。

「薬だけではないわ」とセシリアが言う。「暮らし全体が少しずつ整ったんです」


 その言葉が嬉しかった。


 薬草園は城の片隅の小さな温室にすぎない。けれど、誰かが冬を越える理由になるのなら、それは十分に大きな仕事だ。

 夕方、薄い緑に光る葉を見ながら、私は手帳へ新しい項目を書き足した。


 修復だけでは足りない。

 育てることまで含めて、再建なのだと。


 片づけが一段落してから、私は自然と診療室や温室、帳場をつなぐ静かな廊下へ足を向けていた。薬草と土と紙の匂いが混ざり、物を直す場所だった城が、人を育て、送り出す場所へ変わっているのを感じさせた。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。


 私は今日増えた記録や依頼札を見返し、仕事が自分の手の内だけに収まらなくなってきたことを、少し誇らしく受け止めた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。


 人を育て、役割を渡し、外へ送り出す段階に入ると、修復はもう私一人の技術ではなくなる。その変化が少し寂しくて、同時にどうしようもなく嬉しかった。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。


 私が今見ているのは、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。

お読みいただきありがとうございます。続きは『兄妹ではなく友として』になります。よろしければ次話もお付き合いください。

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