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最初の水と、最初の拍手

 二日目の朝、灰冠城グレイヴォールは薄い霧に包まれていた。


 私はまだ陽も上がりきらないうちから水塔の配管室へ入った。昨夜は興奮と疲労で寝つきが悪かったけれど、不思議と身体は重くない。頭の中にやることの順番が並んでいる時、私は昔から疲れを後回しにできてしまう。良い癖ではないのだろうけれど、今は助かった。


「お嬢様、せめてこれだけでも」


 ユリアが差し出したのは、湯気の立つ木杯だった。薬草茶に蜂蜜を落としたものらしい。甘くて、少しだけ喉にしみる。


「ありがとう」

「飲み終わるまで作業は駄目です」

「厳しいわね」

「昨夜ふらついていた方に言われたくありません」


 反論できなかった。


 配管室にはすでにドルフとニナ、兵たちが集まっていた。折れた梯子の代わりに仮の足場が組まれ、昨日取り外した部品が布の上へ並べられている。どれも古いけれど、捨てられたわけではなかった。壊れたから放置されただけだ。


 それなら、順番に拾い上げればいい。


「まず弁を洗います」


 私は袖をまくった。


「固着の原因が泥と錆なら、削りすぎなければ動くはず。内側の皮膜を壊したら余計に漏れます」

「王都の姫さんが、よくそんなこと知ってるな」


 ドルフが感心半分、呆れ半分で言う。


「前世で……いえ、昔、似たようなことをしていたの」

「なんだそりゃ」

「説明すると長いです」


 私自身、どこまで話すべきかはまだ決めていない。前の人生のことを言って、信じられるとは思えないし、信じられても困る。大事なのは、今ここで役に立てるかどうかだけだ。


 弁を分解すると、予想どおり内部は泥と石灰分で固まっていた。だが完全腐食ではない。磨けばいける。私は布と細い工具で少しずつ汚れを落とし、欠けた縁だけを修復魔法で補った。光はごく薄く、指先だけに集める。全体を一気に直すことはできないし、するべきでもない。


「そんなちまちましたので間に合うのか?」


 後ろで兵士が呟く。聞こえないふりをしたけれど、レオンハルトがすぐに言った。


「ちまちましたので間に合わせてるんだろうが」


 静かな声だったが、十分だった。兵士は慌てて口をつぐむ。私は少しだけ笑いそうになり、でも弁の縁に集中する。余計なことを考えると、魔力の流れが鈍るのだ。


 午前のうちに、主要な弁は三つ、仮補修まで終わった。次は揚水歯車の組み直し。こちらはニナの出番だった。


「父ちゃんが“公爵令嬢に負けんな”ってうるさくてさ」


 彼女はハンマーを肩に担いで、悪戯っぽく笑う。


「誰が勝ち負けを決めたのかしら」

「知らない。でも面白ぇからいいや」


 明るい。こういう人が一人いると現場の空気が軽くなる。私が仮軸の噛み合わせを見ていると、ニナは横から器用に楔を打ち込み、ぐらつきを止めた。ドルフは石の座を削り直し、兵たちは滑車で重い部品を持ち上げる。私一人では絶対にできない作業だ。


 修復魔法は万能ではない。だからこそ、他人の手が必要になる。


 それが、少し嬉しかった。


 昼前、ようやく仮組みが完了した。残るは地下水路との接続確認だ。塔の基礎脇、半ば埋まった石蓋を開けると、冷たい湿気が吹き上がってきた。中には細い水路があり、泥が溜まっている。


「水は死んでないわ」


 私は屈み込んで言った。


「流れは弱いけれど、まだ来てる」

「なら掘るしかねぇな」


 ドルフの号令で、人足たちが泥を掻き出し始める。単純作業なのに、一番しんどい。水は冷たく、泥は重い。途中から私も袖をさらに上げて手伝ったが、すぐにマルタに首根っこを掴まれた。


「病み上がりでもないくせに、倒れる気かい」

「病み上がりではありませんが」

「貴族の手はこういう時に無理をするとすぐ切れる!」


 その通りだった。私はすでに指先を少し裂いていて、反論できない。マルタは舌打ちしながら布を巻いてくれた。


「見張るのも仕事だよ。あんたは壊れる前に止まるのを覚えな」

「善処します」

「今覚えな!」


 怒鳴られた。少しだけ、嬉しかった。


 午後、泥がほぼ掻き出されたところで、私は最後の継ぎ目に手を置いた。給水管と弁、弁と揚水歯車、歯車と塔内の導管。そのひとつひとつが、長年の放置で少しずつずれ、噛み合わなくなっている。


 全部を新しく作り替えるのが理想だ。けれど今はできない。だから、残っているものを信じて、継ぐ。


「始めます」


 私が言うと、周囲が静まった。


 風が止み、塔の隙間から差す光がゆっくり揺れる。私は目を閉じ、一度だけ呼吸を整える。見える。ひび、歪み、摩耗、折損。どこまで戻せば動くのか。どこを残せば壊れにくいのか。


 前の人生で私は、壊れた器の欠けを埋めた。壁画の剥離を止めた。今は、水路を継ぐ。


 やることは同じだ。


「――繋がって」


 指先から溶けるように魔力が流れた。


 金属の接合面が淡く光る。欠けていた歯が埋まり、弁の縁が滑らかになり、ずれていた管が吸い寄せられるように正しい位置へ戻っていく。修復の光は派手ではない。花火のように爆ぜることも、雷のように轟くこともない。ただ、壊れていた場所が“本来そうあるべき形”へ静かに近づいていく。


 やがて、最後の継ぎ目が収まった。


 私はふらつきかけたが、すぐ横から誰かの手が支えた。レオンハルトだ。硬い手袋越しでも、その手が熱を持っているのが分かる。


「立てるか」

「……ええ、たぶん」

「たぶんは信用ならん」

「今は信用してください」


 私が笑うと、彼は小さく舌打ちして、でも手は離さなかった。


「回すぞ!」


 イザークの声が響く。


 兵たちが揚水用の補助輪を押す。最初は重く、ぎりぎりと嫌な音がした。だが一度、二度と回るうちに、歯車が滑らかに噛み合い始める。管の奥でごぼり、と空気が鳴った。


「来る……!」


 私は塔の内壁を見上げた。導管が震える。上へ、上へ。しばらくして、塔の外から誰かの叫びが聞こえた。


「水だ! 水が上がってる!」


 周囲が一気に騒がしくなる。


 私たちは外へ駆け出した。塔の側面に残っていた吐水口から、最初は濁った水が細く流れ、やがて勢いを増して透明になっていく。中庭の簡易槽へ、水が音を立てて落ち始めた。


 一瞬、誰も動かなかった。


 本当に流れたのだと認識するのに、少し時間がかかったから。


 次の瞬間、歓声が上がった。


「おおおっ!」

「本当に出やがった!」

「すげえ……!」


 兵も、職人も、町の者も、子どもまで駆け寄ってくる。水槽へ手を突っ込み、顔を見合わせ、笑う。大げさではなく、城の空気が変わった気がした。たったひとつ、水が通っただけで。


 その中で、ドルフが私の肩をどんと叩いた。


「三日どころか二日じゃねぇか」

「まだ仮復旧です。冬までには本格補修が必要です」

「分かってるよ。だが今日は勝ちだ」


 勝ち。


 王都ではほとんど使わなかった言葉だ。社交は点数で測れても、誰が勝ったかなんて曖昧だった。けれど今は違う。水がない状態とある状態。その差は誰の目にも明らかだ。


 水槽の前で、マルタが腕まくりしたまま笑っていた。


「これでスープが楽になる!」

「マルタさん、それが一番ですか」

「一番だよ。食えなきゃ死ぬ」


 あまりにも当然の理屈で、私は頷くしかなかった。


 その時、小さな子どもが私の裾を引いた。七つか八つくらいの男の子で、頬が赤い。


「おねえちゃん、直したの?」

「みんなで直したのよ」

「でも、おねえちゃんが光ってた」

「ちょっとだけね」

「すげえ!」


 そう言って、水槽の前ではしゃいでいく。私はその後ろ姿を見て、ようやく実感した。


 必要とされたのだ、と。


 たったひとつでも、ここで。


 振り返ると、レオンハルトが少し離れた場所からこちらを見ていた。歓声の輪には入らず、ただ静かに立っている。私は彼の方へ歩み寄る。


「課題としては、合格でしょうか」

「文句なしだ」


 即答だった。


 少し意外で、私は瞬きをする。


「もっと渋られるかと」

「渋る理由がない。結果を出した」

「では……」

「お前は灰冠城にいていい」


 その一言が、胸の奥へまっすぐ落ちる。


 王都では、いていいと言われたことなどほとんどなかった。役に立て、失点するな、迷惑をかけるな。その条件の延長にしか居場所はなかった。けれど今の言葉は違う。少なくとも、今この人は、私がここにいることを認めたのだ。


「ありがとう、ございます」


 声が少し掠れた。


 するとレオンハルトは視線を逸らし、ぶっきらぼうに言う。


「礼なら、次を直してからにしろ」

「欲張りですね」

「辺境だからな」


 私は笑った。


 笑いながら、ふと思う。


 たぶん私は、本当にここが好きになり始めている。


 その夜、私は灰冠城グレイヴォールの客間と工房のあいだの冷たい回廊でしばらく足を止めた。石の壁は相変わらず冷たいのに、どこかで誰かが動いている気配だけは、少しずつ城の内部に熱を増やしていた。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、水滴が石の縁を伝う音のような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。


 私は一日の作業で汚れた指先を眺めながら、直せたものと、まだ手が届かないものを頭の中で並べ直した。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。


 まだ誰の信頼も充分には得ていない。けれど、直したものが目の前で働き始めるたびに、ここでなら自分の手を価値に変えられるかもしれないと思えた。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。


 私が今見ているのは、水滴が石の縁を伝う音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。

ここまでありがとうございます。次話『空っぽの倉庫でパンを焼く』も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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