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灰冠城で最初に言われたこと

 灰冠城グレイヴォールの外門は、思っていた以上にひどい有様だった。


 巨大な鉄扉の片方は外れて地面に倒れ、蝶番は錆びつき、石造りの門楼には深い亀裂が何本も走っている。けれど、完全に崩れていないのは設計が優秀だからだ。荷重の逃がし方が上手い。古い城塞建築にありがちな、無骨だが理にかなった造り。私は馬車を降りるなり、半ば反射で壁の継ぎ目を見てしまった。


「近づくな」


 鋭い声が飛ぶ。


 振り向けば、槍を手にした衛兵がこちらを睨んでいた。王都の衛兵よりずっと薄着で、毛皮付きの外套は擦り切れている。それでも立ち姿に無駄がない。北の人だ。


「失礼。崩れ方を見ていただけです」

「崩れ方?」

「はい。あの亀裂、すぐには落ちません。でも次の雪で危ない」

「……」


 衛兵は露骨に怪訝な顔をした。


 その横を、レオンハルトが無言で通り過ぎる。彼が門内へ入ると、兵たちはすぐに道を開けた。敬意は深いが、媚びはない。辺境伯と兵が互いに信用で繋がっているのが分かる。


 私たちは城内へ通された。


 城といっても、王都の宮殿のような華やかさはどこにもない。中庭は石畳が欠け、塔の窓は半分が板で塞がれ、兵舎に近い棟からは煮込みの匂いが漂っている。使用人たちも少なく、忙しそうに行き交う人の大半は兵士か職人だった。


 その視線が一斉にこちらへ向く。


 王都から来た令嬢。しかも、昨夜の断罪劇の中心人物。噂が届いていなくても、歓迎される理由はない。


「マルタ」


 レオンハルトが呼ぶと、恰幅のいい中年女性が食堂の奥から出てきた。腕まくりしたままの姿に、私は少し驚く。王都なら、貴族の前に出る使用人は必ず完璧な装いを整える。けれど彼女はそんなことより仕事を優先している顔だった。


「なんだい、坊……じゃなかった、閣下」

「客だ。空いている部屋を」

「客?」


 マルタと呼ばれた女性は、私を上から下まで見た。服装が道中仕様に変わっていても、育ちまでは隠せないのだろう。彼女は一瞬で私が王都の貴族だと見抜いた。


「ずいぶん綺麗な客だね。壊れ物は預かれないよ」

「壊れ物ですが、自分で直せます」


 反射で答えると、マルタの片眉がぴくりと上がった。


「口は回るらしい」

「手も動きます」

「ほう」


 少しだけ面白がったような目になる。悪くない反応だ。


 部屋へ案内される途中、私は城内のあちこちに目を走らせた。雨漏りの跡。外れた窓枠。欠けた床石。空になった薪棚。備品の少なさ。ここは、もともと豊かではないうえ、長く後回しにされてきた場所だ。王都の屋敷なら一日で修繕が入るような傷みが、ここでは何年も放置されている。


 案内された客室は、壁こそ厚いが簡素だった。寝台、机、洗面台。暖炉はあるが火は入っていない。窓の一枚にひびが入っている。


「薪は夜に回すよ。今は兵舎が先だ」

「十分です」


 私がそう言うと、マルタはもう一度だけじろりと見た。


「本当に泣かないかい、お嬢さん」

「たぶん泣く暇がありません」

「その顔なら、たぶんそうだろうね」


 そう言って彼女は出ていった。


 ユリアが息を吐く。


「王都の別邸より寒いです……」

「でも、空気はよく回っているわ。湿気も少ない」

「お嬢様、楽しそうですね」

「そう見える?」

「ええ。ものすごく」


 自覚はなかった。でも、確かに心は少し軽かった。目の前にある問題が具体的だからだ。王都の社交は輪郭が曖昧で、誰が何を考えているのか見えにくい。けれど壊れた窓や冷えた暖炉は分かりやすい。直せばいい。


 荷を置いたところで、扉が叩かれた。来たのはイザークだった。黒髪交じりの短髪、日焼けした頬、無骨な軍人の顔つき。けれど礼儀は正しい。


「閣下がお呼びです。今後のことを決める」

「分かりました」


 通されたのは執務室だった。広くはない。地図と報告書と武器の手入れ道具が同じ机に並ぶ、いかにも実務の部屋。そこにレオンハルトが立っていた。窓の外には灰冠城下町ハイゼルの家並みが見える。小さく、寒そうで、でも煙は確かに上がっている。


「座れ」


 言われるまま腰を下ろす。ユリアは後ろへ下がり、イザークが壁際に立った。


「まず確認する」


 レオンハルトは地図の上に指を置いた。


「ここが灰冠城、周囲がハイゼル。人口は城と町を合わせて千二百ほど。冬を越えるだけで精一杯の土地だ。余裕はない。王都の令嬢を養うつもりもない」

「承知しています」

「なら、提案を聞け」


 彼は容赦なく続ける。


「お前が母親の契約書を持っているのは認める。確認もさせてもらった。写しだが本物だ。ゆえに、灰冠城付近の旧グレイヴェル女系相続地に対し、お前が一定の権利を主張できる可能性はある」

「可能性」

「王都に持ち帰ればいくらでも揉める。今ここで法を完全に整理する余裕はない」


 それはそうだ。むしろ、契約書の存在をすぐ認めたことの方が驚きだった。父ならまず否定から入る。


「つまり、私を追い返すつもりはない?」

「今すぐにはな」


 レオンハルトは机に両手をつき、まっすぐ私を見た。


「ただし、三日だ」

「三日?」

「三日のうちに、お前がここで暮らす価値を示せ。口ではなく結果で」


 執務室の空気が、ぴんと張る。


「もし示せなければ?」

「王都へ送り返す」

「送れないと昨日おっしゃっていました」

「最寄りの修道院なら送れる」


 なるほど。甘くない。


 でも、嫌ではなかった。王都で与えられてきた役割とは違い、これはきちんとした交渉だ。必要性があるかどうかを見極めるための、明確な条件。


「何をすれば価値と認めますか」

「こちらが決める」


 私は少し考え、それから首を振った。


「それでは不公平です」

「不公平?」

「はい。曖昧な基準では、どれほど働いても“足りない”と言われれば終わりです。条件は具体的であるべきでしょう」


 イザークがわずかに目を見開いた。ユリアは後ろで、ああもう、という顔をしている。王都で育てられた公爵令嬢が辺境伯に条件交渉を始めたのだから無理もない。


 けれど、私は引かなかった。


「では、お前が決めろ」


 レオンハルトがそう返した時、私は少しだけ彼を見直した。面倒だと切り捨てず、ちゃんとボールを返してくれたのだ。


 私は窓の外へ目を向ける。


 城下町の中央、少し高くなった場所に石の塔が見えた。上部が崩れ、側面に大きな裂け目がある。塔の周囲には人の気配が集まっている。何か、生活に直結する施設だろう。


「あの塔は何ですか」

「旧水塔だ」


 答えたのはイザークだった。


「昔は地下水を汲み上げて城と町へ送っていた。だが十年前の地震で半壊し、今は下町の井戸を使っている」

「城まで水を運ぶのは大変でしょうね」

「大変どころではない」


 レオンハルトの声が低くなる。


「毎日、兵と町の者が桶を担いでいる。冬は凍るし、夏は足りない」

「では、それにしましょう」


 私が言うと、二人とも黙った。


「旧水塔を直します」

「三日でか」

「はい。少なくとも、使えるか使えないかを判定できるところまで」

「無茶だ」


 イザークが即答した。もっともだ。外から見ただけでも、塔はかなり傷んでいる。


 でも、私はあの裂け目の形を見た。あれは全体崩壊の線ではない。外装が割れているだけで、内側の主柱が生きている可能性が高い。そしてもし地下水脈と揚水路が残っていれば、塔そのものを完全修復しなくても、水を通すところまでは行ける。


「無茶でも、今ここで一番意味があります」


 私はレオンハルトを見た。


「城の水は、人の命でしょう。貴族としてではなく、住民として必要とされるなら、そこから始めたい」

「失敗したら?」

「失敗します。途中までは、たぶん何度も」

「言い切るな」

「でも、やめません」


 静かな沈黙が落ちる。


 やがてレオンハルトは長く息を吐き、腕を組んだ。


「いいだろう」

「閣下!?」


 イザークが声を上げるが、彼は手で制した。


「旧水塔の修復を三日の課題とする。必要な人手は最低限出す。ただし、兵の本来任務を妨げるな」

「ありがとうございます」

「まだ礼を言うな。条件はもうひとつある」

「何でしょう」

「お前自身も現場へ立て。指示だけ出して部屋に戻るなら、その時点で終わりだ」


 私は少しだけ笑った。


「望むところです」


 執務室を出る頃には、もう夕方だった。廊下の窓から差す橙色の光が、欠けた床石の上に長く伸びる。


 三日。


 灰冠城に残れるかどうかが決まる、最初の三日。


 私は部屋へ戻る途中、例の水塔を見上げた。裂けた石、倒れた配管、風に鳴る空洞の音。それはたしかに壊れていた。けれど同時に、まだ諦めるには早すぎる壊れ方をしていた。


 直せる。


 根拠はまだ薄い。けれど、確信だけはある。


「お嬢様」


 ユリアが心配そうに横顔を覗き込む。


「大丈夫ですか」

「ええ。ようやく始まるのだと思って」

「始まる?」

「私がここにいる理由が」


 夜の灰冠城は冷え込んでいた。


 それでも、胸の奥には小さな火が灯っていた。


 少し時間を置いてから、私は灰冠城グレイヴォールの客間と工房のあいだの冷たい回廊へ戻った。石の壁は相変わらず冷たいのに、どこかで誰かが動いている気配だけは、少しずつ城の内部に熱を増やしていた。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。


 私は一日の作業で汚れた指先を眺めながら、直せたものと、まだ手が届かないものを頭の中で並べ直した。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。


 まだ誰の信頼も充分には得ていない。けれど、直したものが目の前で働き始めるたびに、ここでなら自分の手を価値に変えられるかもしれないと思えた。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。


 私が今見ているのは、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。暮らしの土台が戻る瞬間は、言葉より先に手応えとして返ってくる。次はそれを確かめに行く番だ。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は『期限は三日、水塔を直せ』です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。

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