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北辺への道と、灰冠城の影

 夜明け前の街道は、王都近郊とは思えないほど静かだった。


 北門を出てからしばらくは石畳が続いていたけれど、丘を越える頃には道は土へ変わり、車輪の音も鈍くなる。夜空は少しずつ薄くなり、東の端が灰色に滲み始めていた。私の膝には母の手紙、向かいには毛布にくるまったユリア。馬車の揺れに合わせて、彼女のまぶたが何度も落ちそうになる。


「眠っていいわよ」

「いえ、お嬢様だけ起きているなんて……」

「私は、たぶん今は眠れないの」


 本当だった。


 心が昂っているのもある。でもそれ以上に、手紙の続きが気になって仕方がなかった。母は封筒を三通残していた。ひとつ目は北へ向かえという導き。二つ目はまだ開けていない。怖いわけではない。ただ、今読めば戻れなくなる言葉が入っている気がした。


 それでも結局、私は封を切った。


『グレイヴェルの人たちは、よそ者にやさしくありません。特に、王都から来た貴族には。けれど、嘘より仕事を見ます。言葉より手を見ます。あなたが本気で暮らすつもりなら、最初の三日で分かってもらえるはずです』


 思わず苦笑する。


 あまりにも母らしい。優しい励ましというより、現実的な助言だ。


『灰冠城は古い城塞で、水脈の上に築かれています。壊れたままでも城として立っているのは、基礎が良いから。壊れた建物には必ず、まだ残っている強い部分があります。そこを見なさい』


 ――壊れた建物には必ず、まだ残っている強い部分がある。


 前の人生で何度も自分に言い聞かせたことと、ほとんど同じだった。壁画の顔料が剥がれ、木地が虫に食われ、金箔が黒ずんでいても、どこかに必ず“まだ保つ場所”がある。その芯を見つけられれば、そこから直せる。


 母は私の力を、きっと最初から知っていたのだろう。


 馬車が緩やかに止まった。外から騎兵の声がする。私はカーテンを少し開けた。


 丘の中腹、小さな石造りの砦が見える。周囲にはまだ夜霧が残り、見張り台の灯火が揺れていた。昨夜レオンハルトが言っていた小砦だろう。門の前では灰色の外套を羽織った兵たちが馬を繋ぎ、こちらを待っていた。


「グレイヴェル辺境伯閣下の命により、砦で休息と馬の交換を行う」


 外からの声は、低くよく通った。後で知ることになる、辺境伯配下の騎士団長イザーク・バルドの声だった。


 砦の中は驚くほど質素だった。簡素な寝台、鉄鍋の匂いが染みついた食堂、壁に掛けられた北方の地図。王都の屋敷とは何もかも違うのに、不思議と息がしやすかった。飾りのためだけの部屋がひとつもないからかもしれない。


「薄いスープしかないが」


 そう言って差し出された木椀を、私は両手で受け取った。麦と根菜を煮ただけの素朴なもの。でも凍えた身体には十分あたたかい。


 向かいの席に座ったレオンハルトは、すでに外套を脱いでいた。簡素な軍装は使い込まれていて、肩当てには無数の傷がある。王都の貴公子のような華やかさはない。けれど、隙のなさが尋常ではなかった。椅子に座っていても、いつでも立てる人の姿勢だ。


「改めて訊く」


 彼は木椀を置き、私を見た。


「なぜ来た」

「王都にいたくなかったからです」

「それだけか」

「それだけで十分では?」


 答えると、彼はわずかに眉を寄せた。納得していない顔だ。当然だろう。婚約破棄された公爵令嬢が一夜で辺境へ来る理由としては、雑すぎる。


 だから私は、手札を一枚だけ見せることにした。


「母の遺言です」

「イリス様の?」

「ええ。北へ行けと書いてありました。私の魔法が修復なら、なおさら北へ、と」

「……」


 レオンハルトの目の色が変わった。氷のようだった視線に、初めて明確な感情が差す。驚き。それから、警戒。


「お前の魔法は修復なのか」

「昨夜、馬車の車軸を直したのを見ていたでしょう」

「見ていた。だが、魔法名までは分からない」


 私は少し迷ってから頷いた。


「十歳の適性検査で判明しました。公には“生活補助系”として処理されています。王都では役に立たないと」

「そうだろうな」


 辛辣だが、否定できない。王都の貴族社会では、魔法は見栄えと権威の道具だ。炎で獅子を象り、水で花を咲かせ、光で宝石を輝かせる。修復など、壊れた前提の地味な力は好まれない。


「だが北では、役に立つかもしれん」


 意外な言葉だった。


 私は顔を上げる。レオンハルトは食堂の窓の外を見ていた。白み始めた空の下、砦の兵たちが黙々と荷馬車を整えている。


「北はずっと足りていない。人も、資材も、時間も」

「それなら、なおさら貴族令嬢の面倒など見ていられないのでは?」

「普通はな」


 彼はそこでようやく私を見た。


「だが、お前が本当に修復師なら話は別だ。灰冠城は放棄領と言われているが、完全に死んだわけじゃない。城壁も、水路も、基礎だけは残っている。直せるものがあるなら、直してほしい」

「私が、住む条件に?」


 訊ねると、レオンハルトは少しだけ間を置いた。


「条件を出せる立場だと思うな。お前は王都の厄介ごとを持ち込んだ厄介ごとだ。受け入れるだけでもこちらは損をする」

「手厳しいですね」

「現実的と言ってくれ」


 その言い方があまりにも真顔で、私は危うく笑いそうになった。


 だが、彼の言うことは間違っていない。私が来たことで、北辺は王家と公爵家の目を引く。面倒が増えるに決まっている。そのうえ、私はまだ何も役に立っていない。


「なら、働きます」

「簡単に言う」

「簡単ではありません。でも、やるしかないでしょう」


 すると彼は、初めて真正面から私を見た。試すような視線。値踏みではあるけれど、不快ではない。嘘か本気かを見ているだけだ。


「泣き言は?」

「壊れた後で言います」

「壊れる前提なんだな」

「人間ですもの」


 少しだけ沈黙が落ちる。食堂の端で、ユリアが兵士から毛布を借りながらこちらをそっと見ていた。心配しているのだろう。でも今は、ここで弱音を吐くわけにはいかない。


 レオンハルトは椀の残りを飲み干すと、立ち上がった。


「日が高くなる前に出る。ここから先は山道だ。馬車は揺れるし、寒い。王都の常識は捨てろ」

「心得ました」

「それと」


 扉へ向かいかけた足が止まる。


「辺境伯閣下、と呼ぶな。堅苦しい」

「では、何と」

「好きにしろ」

「なら、レオンハルト様」

「……勝手にしろ」


 背中のままそう返された。


 砦を出る頃には、空はすっかり明るくなっていた。ここからは辺境伯配下の護衛が付くことになり、馬車の前後を騎兵が挟む。北へ向かう道は細く、ところどころ雪解け水でぬかるんでいた。街道沿いの村々は小さく、石壁は崩れかけ、屋根の傷みも目立つ。人々の服も質素で、でも誰も無駄に怯えていない。こちらを見る目は厳しいが、逃げるような弱さもない。


「見られていますね……」


 ユリアが小声で囁く。


「当然よ。王都から貴族の馬車が来れば、珍しいもの」

「歓迎、ではありませんね」

「母の手紙どおりだわ。言葉より手を見る土地らしいもの」


 私は窓の外を見つめる。


 壊れた屋根。傾いた風車。ひびの入った井戸枠。あちらこちらに、直したいものがある。その感覚は奇妙なほど自然で、気づけば気持ちは少しずつ落ち着いていた。


 壊れている場所が見える、というのは、希望でもある。


 夕方近く、山道を抜けた先で、ようやくそれが見えた。


 灰冠城グレイヴォール


 雪を被った岩山の裾、長く横たわる城壁。崩れた塔。半ば落ちた外門。けれど完全な廃墟ではなかった。ところどころに煙が上がり、城下には小さな家々が寄り添うように並んでいる。死に領ではなく、死にかけた土地、という方が近い。


 その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが鳴った。


 ぞくりとするほど鮮明な感覚。


 壊れている。でも、まだ保つ。基礎は強い。水脈もある。直せる。


「……好きになりそうです」


 思わず口にすると、先を行くレオンハルトが振り向いた。


「何がだ」

「灰冠城が」

「物好きだな」

「修復師ですので」


 風が強く吹いた。北の空気は冷たいのに、肺の奥まで澄んでいる。


 王都では終わったと思った人生が、ここではまだ始まってすらいない。


 そう思うと、怖さと同じくらい、少しだけ胸が高鳴った。


 その夜、私は北辺を前にした宿場の小さな部屋でしばらく足を止めた。粗い毛布と冷えた水差し、それから遠くで鳴る馬具の音が、旅の終わりと始まりを同時に告げていた。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、揺れる灯りと車輪の軋みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。


 私は窓から見える暗い山並みを何度も確かめ、明日には本当にあの城へ着くのだと自分に言い聞かせた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。


 この時点では、私はまだ「追い出された側」の感覚から抜けきれていなかった。けれど、ただ逃げるだけでは終わりたくないという意地だけは、驚くほどはっきり残っていた。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。


 私が今見ているのは、揺れる灯りと車輪の軋みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。

お読みいただきありがとうございます。続きは『灰冠城で最初に言われたこと』になります。よろしければ次話もお付き合いください。

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