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夜の逃走と、北へ向かう馬車

 屋敷へ戻るまでの道のりで、私は一度も振り返らなかった。


 振り返れば、たぶん足が止まる。大広間の視線や、弟の顔や、ミレイユの怯えた目が頭に残っている今、少しでも立ち止まれば、理性より先に感情が追いついてきてしまう気がしたのだ。


 だから私は、王都ルミエルの夜道を最短で駆け抜け、自室へ飛び込み、まず一番にドレスの裾を裂いた。


「お嬢様!?」

「これでは馬車に乗れないもの。ユリア、旅行用の服を。動きやすいもの、できれば厚手で」

「は、はいっ」


 侍女のユリアは涙目のまま、けれど驚くほど手早く動いた。王太子妃教育のために置かれた煌びやかな衣装を次々に無視し、乗馬用の分厚いスカートと短い外套を引っ張り出す。私は自分で髪飾りを外し、コルセットの紐を緩め、鏡台の引き出しを片端から開けた。


 探すのは宝石ではない。母の遺品箱だ。


 子どもの頃は宝物箱に見えたその箱は、今は部屋の一番奥、本棚の陰に押し込められていた。鍵はとうの昔に壊されている。父が中身を調べようとしたのだろう。だが、壊れた鍵ほど開けるのが簡単なものはない。私は修復魔法で歪んだ噛み合わせを一瞬だけ戻し、蓋を持ち上げた。


 中には、古びた手袋、褪せたリボン、北辺の風景を描いた小さな絵葉書、そして――深緑の封筒が三通。


 封蝋は一度剥がされ、雑に貼り直されていた。


「やっぱり」


 胸の奥が冷える。誰かは分かっている。けれど、怒りより先に指先が動いた。封筒を懐へ入れ、その下にあった薄い革の手帳も取り出す。さらに底板を指で叩くと、乾いた音の中にひとつだけ鈍い響きが混じった。偽底だ。


 母は、こういう人だった。表向きは淑やかな公爵夫人で、でも中身は辺境育ちの実務家。必要なものは、必要な場所に隠す。


 私は底板の継ぎ目に爪を差し入れた。古い接着剤の抵抗が指先に伝わる。そこへ、ほんの少し魔力を流す。欠けた部分、剥がれた部分、力のかかる方向――見える。そう、私には見えるのだ。


 ぱち、と小さな音がして偽底が外れた。


 そこにあったのは、王家の紋章が押された契約書の写しと、地図、それから銀の鍵だった。


「……本当にあった」


 思わず、独り言が漏れる。


 地図には北辺の一角が描かれている。山脈、河川、古い街道。そして、灰冠城グレイヴォールの記号。今は放棄された城塞だと聞いていたけれど、地図には水路や貯蔵庫の位置まで細かく記されていた。放棄された土地にしては、情報が新しい。


「お嬢様、着替えを……あ」


 ユリアが契約書を見て、息を止めた。


「それは……」

「母の切り札だったのでしょうね。たぶん、私が成人した時に渡すつもりだった」

「奥様……」


 ユリアは唇をきゅっと結ぶ。彼女は母の侍女でもあった。母が北辺の話をする時だけ、少しだけ楽しそうな顔をしていたことも知っている。


「ユリア。ついてきてくれる?」

「もちろんです」


 間髪入れない返事だった。


「でも、危険かもしれないわ。私は今夜、公爵家からも王家からも見捨てられた身よ」

「違います」


 ユリアは珍しく、きっぱりと言い切った。


「見捨てられたのは、お嬢様ではありません。見る目のない方々が、お嬢様を失うだけです」


 その言い方が少し可笑しくて、私はようやく息を吐いた。笑っている場合ではないのに、肩の力が少しだけ抜ける。


 私たちは急いで荷をまとめた。衣類は最小限。金貨袋は二つ。医薬品。筆記具。修復用に使えそうな小さな工具。母の箱から出した地図と手紙。外ではすでに使用人たちの気配が慌ただしくなっている。大広間の騒ぎが伝わったのだろう。遅かれ早かれ、父の命令が届く。


 その前に出るしかない。


 廊下へ出ると、ちょうど階段の下で執事長のガーネットと鉢合わせた。父の側近中の側近で、いつも笑顔を崩さない男だ。


「お嬢様、このような時間にお荷物とは」

「北辺へ参ります」

「旦那様のご指示をお待ちになられては?」

「待ちません」


 私が答えると、執事長の笑みがわずかに硬くなった。


「お嬢様はお疲れでいらっしゃる。今夜のことはお心を乱されたのでしょう。どうか一度、お部屋へ」

「今夜のことに心を乱されたのは、皆さまの方ではなくて?」


 私がそう返すと、ガーネットの目の奥から温度が消えた。


 ああ、この人も“向こう側”なのだと、妙に納得する。母が亡くなってから、屋敷の空気は少しずつ変わった。残っていた北辺出身の使用人が減り、代わりに父の覚えのめでたい者ばかりが増えた。その中心にいたのがこの男だ。


「通していただけないのなら、騒ぎます」


 私は契約書の端を少しだけ見せた。


「大声で、王家の封蝋付きの契約書を持っていると叫びます。どちらがお困りになりますかしら」

「……お変わりになられましたね、お嬢様」

「壊れたものを見たら、直したくなる性分なだけです」


 意味の分からない返答だっただろう。それでも私の顔から何かを読み取ったのか、ガーネットは一歩退いた。


「どうぞ、お気をつけて」

「ええ。あなたも」


 皮肉を返し、私はその横を抜ける。


 裏門へ向かう途中、フェリクスが来た。肩で息をしながら、私に小さな革袋を押しつける。中には硬貨と、小さな短剣が入っていた。


「姉上、これ……僕の分です。あまり多くはないけれど」

「フェリクス」

「それと、馬車庫の裏口はもう開けてあります。御者は僕が口を利いておいた。王都の北門は、今夜の警備当番が叔父上の派閥です。通りやすいはず」


 早口で言ってから、弟はようやく少しだけ笑った。


「手紙、必ず送ります」

「ええ」


 私は思わずフェリクスの頬に触れた。まだ少年の輪郭なのに、近頃は父に似た角度が出てきた。けれどこの子は父とは違う。違うまま育ってほしい。


「あなたは、私の自慢の弟よ」

「ずるいことを言わないでください。そう言われると、今すぐ一緒に行きたくなる」


 泣きそうな顔でそう言うから、私は本当に少しだけ笑ってしまった。


 別れは短い方がいい。私は弟に背を向け、ユリアとともに馬車へ乗り込んだ。御者は年配の男で、私を見るなり深く頭を下げる。


「奥様に恩がございます。北門まで、必ず」

「ありがとう」


 馬車が動き出す。


 屋敷の石畳を離れる振動が、足元からじわじわと伝わってきた。これでもう、本当に戻れないのかもしれない。いや、戻らないのだ。あの場所に、かつて私の居場所があったとしても、もうない。


 王都の夜は華やかだった。灯りの連なる街路、祭り帰りの笑い声、香水と焼き菓子の匂い。窓の隙間からそれらを眺めながら、私は母の手紙を一通だけ開けた。


 癖の少ない、まっすぐな字。


『リディアへ。もしこの手紙をあなたがひとりで読んでいるなら、私はたぶん先に行ってしまったのでしょう』


 胸の奥が、きゅうと縮む。


『ごめんなさい。あなたに選択肢を残すために、私はいくつかのことを隠しました。あなたが王都で幸せになれるなら、それでよかった。けれど、もし王都があなたを傷つけたなら、北を目指しなさい。グレイヴォールは壊れているけれど、まだ死んではいません。あの土地には、忘れられた役目と、水と、人の暮らしが残っています』


 私は目を閉じた。


 母は知っていたのだ。この家が安全ではないことも、私がいつか選ばされることも。


『そして、あなたの魔法が“修復”なら、なおさら北へ行きなさい。あの力は王都では疎まれるでしょう。けれど北では、誰かが必ず必要とします』


 手紙を読み終えた時、馬車が急に揺れた。


「きゃっ」

「どうしたの!?」


 ユリアが身を乗り出す。外から、御者の短い叫びが聞こえた。続けて、馬のいななき。何かが道路へ飛び出したのだ。


 私はカーテンを少しだけめくった。


 北門へ向かう裏通り。石畳の先に、黒い影が三つ。人ではない。大きな犬のようにも見えたが、目が赤い。魔獣だ。王都の内側にいるはずのない類の。


「お嬢様、伏せてください!」


 御者の声と同時に、馬車の車輪が大きく跳ねた。片輪が縁石に乗り上げ、そのまま嫌な音を立てて傾く。ユリアが悲鳴を上げ、私は咄嗟に彼女を抱え込んだ。荷が散る。窓にひびが入る。


 このまま転倒したら、終わりだ。


 そう思った瞬間、私の目に車軸の裂け目がはっきりと見えた。繊維の方向、金具の歪み、木と鉄の境界。頭で考えるより先に、指先へ魔力が流れる。


「――戻れ」


 短い呟きとともに、裂けた木が噛み合った。


 きし、と音がして、馬車の傾きがわずかに戻る。完全ではない。けれど一瞬でも持てば十分だ。御者が鞭を鳴らし、馬が跳ねるように前へ出る。次の瞬間、進路を塞いでいた黒い影の一頭が、横から弾き飛ばされた。


 銀の閃光だった。


「止まるな!」


 低い男の声。続けざまに鋼の音が響き、二頭目、三頭目の影が地面へ叩き伏せられる。私は窓の外を見た。


 夜の街路に、一騎の馬がいる。深い灰色の外套。長身。抜き放たれた剣の軌跡だけが、月明かりを鋭く反射していた。馬上の男は最後の一頭を仕留めると、こちらへ振り向く。頬に走る古傷。氷のような灰青色の目。


「北門に向かう馬車か」

「……そうです」


 私が答えると、男は倒れた魔獣を一瞥した。


「王都の中に混じるには質が悪い。誰かが引き込んだな」

「あなたは?」

「通りすがりだ」


 いかにも嘘だった。通りすがりの剣筋ではない。夜の騎士というより、戦場を日常にしている人の動き。


 けれど問う前に、男の視線が私の手元へ落ちた。無意識に車体へ触れていた指先に、修復の魔力の残滓がまだ残っていたのだろう。


「今のは、お前がやったのか」

「馬車が壊れると困るので」

「そうか」


 男はそれ以上、追及しなかった。


 代わりに馬を寄せ、御者へ短く命じる。


「北門まで送る。門兵には俺から言う」

「た、助かります……!」


 御者が震える声で返事をする。私は窓越しに男を見上げた。


「お礼を伺っても?」

「礼なら北で言え」


 ぶっきらぼうにそう言って、男は馬首を巡らせた。


 北で。


 その言葉が妙に引っかかる。もしかしてこの人も、北辺の者なのだろうか。だが確かめる暇はなかった。馬車は再び走り出し、私はユリアの手を握る。


「大丈夫?」

「な、なんとか……お嬢様こそ」


 私は頷いた。心臓は早鐘を打っていたけれど、怖いだけではない。今の一瞬で、自分の魔法がはっきりと形を持ったからだ。私は壊れた車軸を直した。理屈ではなく、実感として。


 北門は驚くほど簡単に開いた。外套の男が何か徽章を見せただけで、門兵たちは顔色を変え、敬礼したのだ。


 馬車が門を抜ける。王都の灯りが背後へ遠ざかっていく。


 外套の男はそのまま前を走り、やがて街道の分岐で馬を止めた。月明かりの下で振り返った顔を見て、私は息を呑む。


 通りすがりにしては、あまりに有名な顔だった。


 北辺グレイヴェル辺境伯、レオンハルト・グレイヴェル。


 王都の社交界では“氷狼辺境伯”と噂される人物。若くして北方防衛を担い、無骨で冷酷、魔獣より人を寄せつけない男。舞踏会にも滅多に現れず、現れたとしても壁際で二曲と踊らずに帰る、などと勝手な噂ばかりを聞いていた。


 本人は噂より、ずっと疲れて見えた。


「ここから北は、祝祭帰りの道じゃない」


 レオンハルトはそう言った。


「本当に行くつもりか、公爵令嬢。灰冠城まで」

「はい」

「死に領だぞ」

「王都に残るよりは、まだましです」


 私が答えると、彼はわずかに目を細めた。嘲笑ではない。値踏みでもない。何かを確かめるような、静かな視線。


「……好きにしろ。だが、一度入れば楽な場所ではない」

「そうでしょうね」

「泣いて帰りたいと言っても、送ってやれない」

「泣く余裕があれば、たぶん何か直しています」


 半ば本気で答えると、彼の口元がほんのわずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。たぶん。


「変な女だな」

「悪役令嬢ですので」

「そうか」


 短く返して、彼は手綱を引いた。


「夜明けまでに追いつけ。前方の丘を越えた先に小砦がある。そこまでは街道を外れるな」


 それだけ告げて、レオンハルトは馬を走らせる。灰色の外套が夜へ溶けるように遠ざかっていくのを見送りながら、私はようやく本当に北へ向かっているのだと実感した。


 王都を追われた悪役令嬢。


 壊れた馬車を直した修復師。


 そして、これから向かうのは壊れた城。


 不思議なくらい、筋は通っていた。


 片づけが一段落してから、私は自然と揺れの強い馬車の座席へ足を向けていた。車輪の軋みと馬の息が一定のリズムで続き、夜気が布の隙間から細く入り込んでいた。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも揺れる灯りと車輪の軋みのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。


 膝の上に置いた母の手紙を指先でなぞりながら、私は眠れないまま窓の外の闇を見ていた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。


 この時点では、私はまだ「追い出された側」の感覚から抜けきれていなかった。けれど、ただ逃げるだけでは終わりたくないという意地だけは、驚くほどはっきり残っていた。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。


 私が今見ているのは、揺れる灯りと車輪の軋みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。北へ向かう道の冷たさは厳しいはずなのに、不思議と今はそこにしかないものがある気がしていた。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。

ここまでありがとうございます。次話『北辺への道と、灰冠城の影』も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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