星灯祭の断罪と、悪役令嬢の退場
新連載です。ここからリディアのやり直しが始まります。楽しんでいただけたら嬉しいです。
「リディア・エーデルフェルト公爵令嬢。君との婚約は、今日この場で破棄する」
星灯祭の大広間が、しん、と凍りついた。
天井いっぱいに吊るされた魔導硝子の星々が揺れ、金糸の幕がかすかな音を立てる。王立学院の卒業を祝うこの夜は、本来ならば笑顔と祝福で満ちているはずだった。けれど今は、壇上に立つ第一王子カイル殿下の声だけが、嫌にはっきりと響いている。
「君は聖女候補ミレイユ・ノアに対し、度重なる侮辱と嫌がらせを行った。祈りの間に閉じ込め、祝福の杯に細工をし、さらには彼女の首席任命を妨害するため、星殿の宝物庫にまで手を伸ばした。王家の婚約者として、いや、一人の人間としても許される行為ではない」
大広間のあちこちで、息を呑む音がした。
視線が集まる。好奇の目、蔑みの目、怯えた目、そして――ようやく面白いものが始まったとでも言いたげな、退屈しのぎの目。
私はゆっくりと瞬きをした。
その一瞬で、胸の奥に何かが落ちてきた。
古い引き出しが、勢いよく開いたような感覚だった。積み重なっていた薄いガラス板が、一斉に音を立ててはまり直すような。知らないはずの蛍光灯の白い光、乾いた刷毛の感触、欠けた陶器の縁を指先でなぞる感覚、深夜の作業場の冷たい空気。前の世界での私は、壊れたものを直す仕事をしていた。文化財の修復室で、時間の傷を読み、欠けを埋め、剥離した彩色をつなぎ直す仕事を。
そして、最後は過労で倒れた。
そこまで思い出したところで、逆に頭は驚くほど静かになった。
なるほど、と私は思った。
どうして私はずっと、壊れたものを見ると胸が騒いだのだろう。どうして古い本の綴じ糸や、ひびの入った窓枠や、崩れかけた石垣を見るたび、正しい手順が分かるような気がしていたのだろう。どうして自分の魔法で、金属の歪みや木目の裂け目が“見える”のだろうと、不思議で仕方なかったのか。
私は修復する側の人間だったからだ。
「……何か、弁明はあるか」
カイル殿下が一段高い位置から私を見下ろす。
隣には、薄い金色の髪をした少女――ミレイユがいた。白いドレスの裾を両手で握りしめ、今にも泣きそうな顔をしている。庇護欲を誘う可憐な佇まいだ。だが、私には分かった。彼女は勝ち誇ってなどいない。むしろ怯えている。誰かにここへ立たされ、逃げられずにいる目だ。
そして、カイル殿下が「証拠」として掲げた祝福の杯を見た瞬間、私は自分でも驚くほど冷静に理解した。
あの杯の縁に入った微細なひびは、今夜できたものではない。接合面に沈んだ煤と、古い補修痕の色が違う。私が細工したなどという話は、最初から成立しない。
けれど、ここでひびの年代を説明したところで、この場の空気は覆らないだろう。求められているのは真実ではなく、断罪の儀式だ。誰かを悪役に仕立て、誰かを正義の位置に置くための、分かりやすい芝居。
その配役に、どうやら私は選ばれたらしい。
ならば。
「弁明はいたしません」
私がそう言うと、ざわめきが一段強くなった。
正面、貴族席にいる父――オズヴァルト・エーデルフェルト公爵は、わずかに眉をひそめた。焦りではなく、不満の表情だ。もっと見苦しく取り乱してほしかったのだろう。
その隣で、弟のフェリクスだけが青ざめていた。
「潔く罪を認めるのだな」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「この場で、私がどれほど言葉を尽くしても、殿下はお聞きになるつもりがないのでしょう。ならば、言葉を浪費する必要はございません。ですが、ひとつだけお願いがございます」
カイル殿下の眉が動く。彼は、私が泣き縋ると思っていたのだろう。婚約破棄を撤回してほしいとか、誤解だとか、ミレイユを罰してほしいとか。そういう、分かりやすく醜い台詞を。
「……何だ」
「婚約破棄を、お受けします」
周囲の空気が変わった。
ざわめきが、今度は戸惑いへと形を変える。
「そのうえで、私は王都を離れます。亡き母イリスより継承権を与えられている、北辺グレイヴェルの旧領へ下向いたします」
「は?」
素で間の抜けた声を漏らしたのは、カイル殿下だった。
私は淡々と続ける。
「母はグレイヴェル辺境伯家の出身です。婚姻に際し、王家と我が公爵家は、母個人の名義で灰冠城付近の管理権を保全する契約を交わしています。私が成人した時点で、その継承について協議する旨も書面に残っていたはずです」
「そんなものは聞いていない!」
「私は存じております。母が遺した手紙と、写しの契約書を所持しておりますので」
嘘ではない。手紙はある。契約書は、まだ写しの一部しか見つけていない。だが母の遺品箱の底に、王家の封蝋が押された書状があるのを私は知っている。幼い頃、隠れて見つけてしまったのだ。あの時は読めなかったけれど、今なら意味が繋がる。
父の顔色が変わった。
初めて、彼の視線に明確な警戒が混じる。
「馬鹿な。灰冠城はとっくに放棄された死に領だ。管理権など、何の価値も――」
「価値がないのでしたら、ちょうど良いではありませんか」
私は父の言葉を遮った。
これまでの私なら、絶対にできなかったことだ。王都で育ち、淑女として従順であることを求められ、王太子妃として失点しないことだけに神経を削ってきた私は、誰かの言葉を遮る勇気なんて持っていなかった。
けれど、今の私は知っている。
壊れたものを前にしたら、一番先にするべきことは「被害を広げる手を止めること」だ。
「役立たずの悪役令嬢を王都から遠ざけるには、願ってもない処分でしょう。修道院でも塔への幽閉でもなく、私は自ら辺境へ参ります。王都にとっても、公爵家にとっても、その方が都合が良いはずです」
「リディア……!」
フェリクスが堪えきれずに声を上げた。けれど私は弟を見なかった。見てしまえば、決意が鈍る気がしたから。
代わりに、私はミレイユを見た。
彼女は唇を震わせ、私と目が合うと、怯えたように肩を揺らした。その胸元には、小さな星形の徽章が付いている。聖女候補に与えられる銀の徽章だ。けれどよく見ると、留め具の裏側に黒い汚れが入り込んでいる。あれは煤ではない。古い呪墨の変色だ。
誰かが、彼女の身の回りのものに細工をしている。
その確信が、私の中に冷たい火を灯した。
「ミレイユ様」
名前を呼ばれた彼女は、びくりと身を震わせた。
「私はあなたを祈りの間へ閉じ込めていませんし、祝福の杯にも触れておりません。宝物庫にも入っていません。けれど――」
私は一拍置く。
「どうか、今夜ひとりにはならないでください」
大広間が、またどよめいた。
「何を言っている」
「忠告です、殿下。いえ、もう殿下に申し上げる筋合いはありませんね」
私はゆっくりと膝を折った。王族に向けるべき、完璧な礼。幼い頃から叩き込まれた所作が、皮肉なくらい滑らかに決まる。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。王太子カイル・アルトリア殿下のご多幸をお祈り申し上げます」
顔を上げた時、殿下の表情は勝者のものではなかった。
戸惑いと、苛立ちと、少しの焦り。
彼はきっと、私が泣き崩れると思っていたのだ。悪役としてきちんと取り乱し、最後まで自分の引き立て役を務めると思っていた。舞台の進行を乱されるのが、一番嫌いな人だ。だから、台本にない退場の仕方をされると弱い。
「待て。誰が、勝手に――」
「王家が不要と判断した令嬢が、不要な土地へ向かうだけです。何か問題が?」
私は静かに問うた。
カイル殿下は言葉を失う。口を開いたのは父だった。
「勝手な真似は許さん、リディア。お前は公爵家の娘だ。処分は家が決める」
「では、お聞かせくださいませ。父上は、私をどこへ送るおつもりだったのですか」
父は答えなかった。
答えられなかった、の方が正しい。王都の社交界から消す方法はいくらでもある。病弱を理由に別邸へ押し込める。修道院に預ける。婚約破棄の責任を一身に負わせて、地方貴族へ投げる。あるいは――もっと徹底的に。
そこまで考えて、私は妙に納得した。
母の遺品箱が何度も荒らされた理由も。私の魔法が「修復」だと判明した途端、父が露骨に落胆した理由も。王都の屋敷でだけ、古い使用人がいつの間にか消えていった理由も。
壊れているのは、婚約だけではない。この家も、この国も、もっと前からずっとどこかがきしんでいる。
「リディア様」
小さな声がした。振り向けば、乳母上がりの侍女であるユリアが、人混みの外からこちらを見ていた。泣きそうな目をしているのに、顎だけはしっかり上がっている。彼女は昔からそうだ。泣いていても、私の前では必ず背筋を伸ばす。
私は彼女にだけ、ほんの少し微笑んだ。
「準備をお願い。今夜のうちに発ちます」
「……かしこまりました」
返事は震えていたが、足取りは迷っていなかった。
「待ちなさい!」
父が声を荒げた瞬間、天井の魔導硝子がひとつ、ぱきりと音を立てた。
誰も触れていないのに、だ。
私の目には見えた。見えすぎるほどに。光を受けた接合部に、黒い筋が走っていた。今夜の最初から、ずっと。
「危ない!」
咄嗟に私は身を翻した。割れ落ちる星硝子の真下には、ミレイユがいた。彼女は何が起きているか分からず、立ち尽くしている。
駆け寄る。
ドレスの裾を掴み、引き倒すようにして抱き込む。次の瞬間、頭上から降った破片が床に散った。甲高い悲鳴。ざわめき。誰かが「守れ!」と叫ぶ。
私の腕の中で、ミレイユが震えていた。
「……大丈夫」
「な、なんで……」
「落ちる前から、割れていました」
彼女の耳元で囁くと、ミレイユは息を呑んだ。
そして私は、彼女の髪に触れかけて、止める。髪飾りの留め具にも、杯と同じ黒い染みがあったからだ。偶然ではない。これは連続している。
上から誰かの足音が降りてくる。騎士たちだ。王族の周囲に集まり、場を収めようとしている。だが、彼らが守ろうとしているのは真実ではなく、秩序だ。
私はミレイユを立たせると、彼女の耳元にもう一度だけ告げた。
「誰も信じられなくても、今夜だけは部屋の鍵を内側から掛けて。窓辺には近づかないで」
彼女は何か言おうとして、結局、言葉を飲み込んだ。
その視線の先では、カイル殿下がこちらへ駆け寄ろうとしていた。だが、私が彼を見るより先に、父がその腕を掴んだ。止めたのだ。どうしてそこで止める必要があるのか。考えるまでもない。
私は背を向けた。
大広間の中央を歩く。左右に開く人波の中、星硝子の破片が靴先で鳴った。王太子妃教育で選び抜かれた細い靴は、辺境の泥には向かないだろう。それでもいい。汚れるべき時に、汚れない靴の方がおかしい。
「リディア!」
今度の声は、弟だった。
振り向くと、フェリクスが青い顔のまま走ってくる。まだ十六になったばかりの弟は、父に似た銀灰の髪を持ちながら、その目だけは母に似てやさしい。
「姉上、本当に行くのですか」
「ええ」
「僕も――」
「駄目よ」
即答した。
フェリクスは悔しそうに唇を噛む。私は彼の胸元に手を置き、整えられたタイを少しだけ直した。
「あなたは残りなさい。残って、見ていて。何が壊れていて、誰がそれを壊したのか。あなたはちゃんと見られる人だから」
「でも……!」
「手紙を頂戴。信じられる人だけを使って」
小声で言うと、弟の目が見開かれた。彼は賢い。今の一言で十分だ。
私はフェリクスの肩をひとつ叩き、そのまま歩き出す。
今夜のうちに発たなければ、朝には足を封じられるだろう。母の遺品箱も、契約書も、すべて屋敷から消されるかもしれない。ならば先に動くしかない。
廊下に出ると、祭りの楽音がひどく遠く聞こえた。扉の向こうでは、さっきまで誰かの未来を寿ぐために奏でられていた曲が、今も何事もなかったかのように続いている。
滑稽だ、と少しだけ思う。
けれど、壊れた舞台から降りるのは、敗北ではない。
修復には、まず作業台の上を片づけるところから始めるものだ。ひび割れを広げる雑音や、余計な手を遠ざけ、何が欠け、何が残っているのかを確かめる。その手順だけは、前の人生で嫌というほど身に染みていた。
大丈夫。
壊れたまま捨てられるものなんて、そう多くない。
捨てさせない。
私は息を吸い、夜気の流れ込む回廊へ足を踏み出した。王都ルミエルの春の夜はやわらかいのに、肌に触れる空気は妙に冷たかった。空を見上げれば、祝祭の灯りの向こうで、本物の星がひとつだけ鋭く瞬いている。
あれは、北だ。
母の故郷。灰冠城。役立たずの悪役令嬢が行くには、たぶんちょうどいい場所。
だけど――もし本当にあそこが壊れているなら。
私は、きっと好きになる。
その確信だけを胸に、私は走った。
少し時間を置いてから、私は荷造りの途中で散らかった自室へ戻った。破いたドレスの糸くずと、急いで開けた引き出しの木の匂いがまだ残っていた。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。
私は箱の蓋を閉めたり開けたりしながら、持っていくものと捨てるものを何度も見直した。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。
この時点では、私はまだ「追い出された側」の感覚から抜けきれていなかった。けれど、ただ逃げるだけでは終わりたくないという意地だけは、驚くほどはっきり残っていた。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。
私が今見ているのは、磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。その先には、立ち止まる暇もない夜の移動が待っている。けれど、走りながらでなければ掴めない未来もある。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。
読んでくださってありがとうございます。続きは『夜の逃走と、北へ向かう馬車』です。次話もよろしくお願いします。




