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修復できないもの

 勝利の翌朝、私は自分の手帳を開いて、少しだけ呆然とした。


 前の人生で使っていたはずの用語が、いくつか思い出せない。修復材料の名称。作業室の匂い。上司の顔。大事だったはずなのに、輪郭だけが薄れている。


「……代償、なのかしら」


 城核を強く継いだ夜、私は確かに何かを削ったのだろう。命ではない。今ここにいる私を形作る、昔の記憶の一部。全部失ったわけではない。でも、ぼんやりと霞がかかったみたいに遠い。


 それをレオンハルトへ話すと、彼はすぐに言った。


「次からはやるな」

「次がないといいのだけれど」

「そうじゃない」


 彼は珍しく言葉を選ばずに続けた。


「何かを直すたび、お前だけが削れるやり方は認めない」

「でも、あの時は必要で」

「必要でもだ」


 強い声音だった。


 私は少し笑ってしまう。


「怒ってます?」

「怒っている」

「ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いじゃない」


 でも、その怒りは嫌ではなかった。失うことを惜しんでもらえるのは、思っていたより救いになる。


 ミレイユも真顔で頷く。


「次は、ちゃんと一緒に負担します」

「わたしも」

 ハクまで混ざった。

『単独過負荷は非推奨です』


 皆して同じことを言うから、私は降参するしかない。


 修復できないものがある。


 その事実は悔しい。でも同時に、だからこそ誰かと繋ぐ必要があるのだと、今は分かる。


 私はもう、一人で全部を直そうとは思わなかった。


 少し時間を置いてから、私は灰冠城の回廊か、城壁へ続く階段の途中へ戻った。石に触れるたび、戦いと修復の痕がまだ新しく、城そのものが次の選択をじっと待っているようだった。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。工具箱の留め金と、使い込まれた作業台の木目のような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。


 私は足を止めるたびに今日の言葉と沈黙を反芻し、それが誰の覚悟に繋がったのかを確かめるように息を整えた。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。


 大きな戦いや決断の前後では、力そのものよりも、誰が何を引き受けるかの方が人を変える。私はようやく、抱え込むことと支えることは別だと身体で分かり始めていた。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。


 私が今見ているのは、工具箱の留め金と、使い込まれた作業台の木目のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。

読んでくださってありがとうございます。続きは『みんなで継ぐ世界』です。次話もよろしくお願いします。

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