北へ帰る馬車
王都を発った帰路の馬車は、来た時より静かだった。
勝った、とはまだ言えない。正式な結論は出ていないし、大神官セルヴァンも逃げたままだ。それでも空気が違うのは、少なくとも王都の人々が“灰冠城を無視できない”と知ったからだろう。
私は窓の外を見ていた。石畳が土道へ変わり、家々がまばらになっていく。王都の香料の匂いではなく、湿った土と草の匂いが入ってくると、肩の力が少しずつ抜ける。
「戻った気がするか」
向かいに座るレオンハルトが問う。
「はい」
「まだ城は見えていないぞ」
「分かっています。でも、空気が違うので」
「そうか」
彼もまた、少しだけくつろいで見えた。王都ではずっと警戒を解かなかった人が、今は剣から手を離している。
「右腕は」
「まだ疼くが、前ほどじゃない」
「礼拝塔の陣を壊したからかもしれません」
「だといい」
私は少し迷ってから言った。
「地下の封鍵庫、やっぱり王都と繋がっているのでしょうね」
「ああ。だから次は灰冠城で決着をつける必要がある」
「怖いですか」
「怖くないと言えば嘘になる」
彼がそうはっきり言うのは珍しかった。私は思わず顔を上げる。
「でも、今は一人じゃない」
レオンハルトは淡々と続けた。
「前に地下へ行った時よりは、ましだ」
その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。私は誤魔化すように窓の外へ視線を戻した。
「それ、かなり口説いてますよ」
「口説いてない」
「自覚がないならなお悪いです」
「悪いのか」
「……今は、悪くありません」
小さく答えると、馬車がちょうど石に乗り上げて揺れた。私は危うく前へ倒れかけ、レオンハルトが反射で手を伸ばす。掴まれた手首に、彼の体温が残った。
沈黙。
妙に気まずくて、でも嫌ではない沈黙だった。
「灰冠城へ戻ったら、忙しくなります」
私は先に口を開く。
「橋の本補修、水路の続き、城壁、学校……」
「学校?」
「子どもたちが字を書ける場所が欲しいって話になっているので」
「いつの間に」
「市場の時に」
「お前、本当に城のあちこちで話を増やしてくるな」
「仕事を見つけるのが上手いんです」
そう言うと、彼は小さく笑った。
王都から遠ざかるほど、その笑いは自然になっていく気がした。
灰冠城へ帰る。
そう思える場所があることが、今は何より心強かった。
片づけが一段落してから、私は自然と北へ向かう帰りの馬車の中へ足を向けていた。行きよりも柔らかな揺れと、閉めきらなくても怖くない夜気が、王都を離れていく実感を静かに運んでいた。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも揺れる灯りと車輪の軋みのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は窓へ額を預け、遠ざかる石畳の匂いより、これから近づいてくる北の風の方を待っている自分に気づいた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
王都へ戻ることは、過去へ引き戻されることと似ているようで、実際には違った。今の私は、誰かに価値を決めてもらうためでなく、自分の積み上げを持って立つためにそこへいる。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、揺れる灯りと車輪の軋みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。戦いの外にある気持ちの揺れは、案外こちらの方が扱いづらい。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
読んでくださってありがとうございます。続きは『告白未満の夜』です。次話もよろしくお願いします。




