告白未満の夜
灰冠城へ戻った夜、歓迎は思っていた以上に騒がしかった。
門前には灯りが並び、城下町の人たちが代わる代わる顔を出す。王都で何があったのか、誰が何を言ったのか、ミレイユは本当に王の前で話したのか。質問攻めにされる前に、マルタが「今日は食わせて寝かせるのが先!」と一喝してくれたおかげで、なんとか夕食までは辿り着いた。
食堂が静かになった後、私は一人で中庭へ出た。黒霧の夜に傷んだ石はまだそのままだ。けれど修復工房の灯りが見えるだけで、不思議と寒くない。
「眠れないのか」
振り向くと、レオンハルトがいた。湯気の立つ木杯を二つ持っている。
「はい。王都の空気を持ち帰ってしまった気がして」
「なら流せ」
彼は片方を差し出した。薬草を煮た湯だ。苦い。でも、灰冠城の味がした。
「王都で怖くなかったか」
レオンハルトが訊く。
「怖かったです」
「そう見えなかった」
「怖い顔をしていただけです」
「上手かった」
「褒め言葉として受け取ります」
しばらく、湯気だけが上がる。
やがて私は、小さく言った。
「でも、あの場で一番怖かったのは、また王都に置いていかれることでした」
「……」
「灰冠城へ帰れないかもしれない、って考えた時が、一番」
言ってしまってから、顔が熱くなる。こんなことを素直に口にするつもりはなかったのに。
けれどレオンハルトは笑わなかった。
「なら、帰ってこられてよかった」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥へまっすぐ入ってくる。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「契約婚約、でしたよね」
「ああ」
「今も、そのつもりですか」
「今は……」
彼は少しだけ言葉を選んだ。
「契約が先で助かったと思っている」
「それは、どういう」
「最初からそれ以外だったら、もっと面倒だった」
私は答えに困った。面倒、という言い方は相変わらずひどい。でも、その意味はなんとなく分かってしまう。契約だから並べた。契約だから一緒に戦えた。そうでなければ、最初から別の感情が邪魔をしたかもしれない。
「ずるい言い方です」
「自覚はある」
「なお悪いです」
「そうかもしれん」
その夜は、それ以上進まなかった。
でも、進まないこと自体が少しだけ甘かった。
その夜、私は灰冠城の回廊か、城壁へ続く階段の途中でしばらく足を止めた。石に触れるたび、戦いと修復の痕がまだ新しく、城そのものが次の選択をじっと待っているようだった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は足を止めるたびに今日の言葉と沈黙を反芻し、それが誰の覚悟に繋がったのかを確かめるように息を整えた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
大きな戦いや決断の前後では、力そのものよりも、誰が何を引き受けるかの方が人を変える。私はようやく、抱え込むことと支えることは別だと身体で分かり始めていた。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、指先に触れる布地と、近くで揺れる灯りのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。扉を開けるには感情だけでも理屈だけでも足りない。次はその両方が問われる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
読んでくださってありがとうございます。今回はここで一区切りです。次話は『三つの鍵』になります。よろしければ評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。




