王都に溢れる黒霧
核心へ触れた瞬間、それは起きた。
最初は、白の間の窓硝子が一本だけひび割れた音だった。
ぱきり、と乾いた音。誰も動かない。次いで二枚目、三枚目。高い位置の窓へ黒い染みのようなものが広がり、陽の光が急速に鈍る。
「まさか」
私が呟いた時にはもう遅かった。
王城の外で鐘が乱打される。悲鳴。走る足音。開け放たれた扉の向こう、廊下の先から兵が飛び込んできた。
「陛下! 北外郭に黒霧発生! 城下へ流入しています!」
「なんだと!?」
会場が一気に混乱へ沈んだ。王都貴族たちは色を失い、星殿関係者は互いに顔を見合わせる。父だけが、ほんの一瞬遅れてから驚いた顔をした。その遅れが、妙に気にかかった。
「灰冠城だけでは終わらないんです」
私は王へ向き直る。
「壁画の通りなら、結界の片側が歪めば王都も割れます」
「……今、講釈を聞いている場合か!」
カイル殿下が怒鳴った。だがその声は、半ば恐慌に近い。
「なら現実を見てください、殿下。もう割れています」
窓の外では、白煙のような黒霧が塔の間を流れていた。灰冠城で見た時より薄いが、確かに同じものだ。人々が逃げ惑い、衛兵が整列しきれていない。王都は“災厄の来ない場所”として設計されている。だから、来た時の初動が遅い。
「レオンハルト様」
「分かっている」
彼はすでに剣へ手をかけていた。右腕の呪いがわずかに浮くが、今はそれを気にしている場合ではない。
「ミレイユ様、王城内の人を落ち着かせられますか」
「やります!」
「ハク、結界の歪みを追える?」
『限定的に可能。中心は北外郭』
「私は現場へ行きます」
王は一瞬だけ迷い、それから低く命じた。
「全員、協力せよ。今この場での審理は中断する」
「陛下!」
父が声を上げる。
「だが――」
「黙れ、公爵」
王の声音に、初めて怒気が混じった。
白の間を飛び出すと、王城の廊下はすでに避難誘導でごった返していた。窓辺には黒い筋が走り、壁の装飾金具がいくつも落ちている。私はその一つを拾い、違和感に眉を寄せた。灰冠城の結界歪みと同じ種類の“ずれ”だ。繋がっている。やはり本当に。
城門前へ出ると、黒霧は王都の石畳を舐めるように広がっていた。形を取る前の薄い霧。それでも、人は怯えるのに十分だ。
「灯りを並べてください!」
私は衛兵へ叫ぶ。
「広場の四辺に、等間隔で! 火を絶やさないで!」
「な、なぜ」
「灰冠城で効きました!」
説明より実行が先だ。レオンハルトはすでに前線の兵をまとめ始めている。その手際の良さに、王都の衛兵たちが目を丸くしていた。
たぶん今、王都は初めて知る。
切り捨てようとした辺境が、何を担っていたのかを。
片づけが一段落してから、私は自然と王都ルミエルで与えられた客間の窓辺へ足を向けていた。磨きすぎた床と香の残り香、遠くの馬車の音。どれも懐かしいのに、もう自分のものではない距離でそこにあった。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は窓枠へ指を置き、王都にいた頃なら見逃していた小さな傷や歪みを、今ははっきり見つけられる自分を少し不思議に思った。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
王都へ戻ることは、過去へ引き戻されることと似ているようで、実際には違った。今の私は、誰かに価値を決めてもらうためでなく、自分の積み上げを持って立つためにそこへいる。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
ここまでありがとうございます。次話『大神官セルヴァン』も、楽しんでいただけたら嬉しいです。




