大神官セルヴァン
王都の黒霧は、灰冠城の時より弱かった。
その理由は単純だ。こちらにはまだ王都結界の残骸があり、完全には壊れていないからだ。だからこそ、補えば持つ。私はそう判断した。
「北外郭の礼拝塔です!」
ミレイユが指差す。彼女の祈りに反応するように、黒霧の流れが一点へ吸い寄せられていた。私たちは礼拝塔へ走った。扉を開けた瞬間、鼻を刺すような墨の匂いが広がる。
床一面に描かれていたのは、星殿式に偽装された大規模な増幅陣だった。
「……最低」
私は思わず呟いた。聖女候補の小さな徽章に仕込まれていたものを、何十倍にもしたような構造。結界の揺れを利用し、祈りを歪め、黒霧を呼び込む回路だ。
「誰がこんな」
「決まっているだろう」
レオンハルトの声は冷たかった。
そこへ、背後からゆっくり拍手が聞こえた。
「見事ですな、リディア嬢」
振り向くと、礼拝塔の入口に大神官セルヴァンが立っていた。白金の法衣、穏やかな微笑み。だが目の奥には、もう聖職者の仮面を被る気すらない冷たさがある。
「灰冠城の鼠は思った以上によく働く」
「聖女候補を道具にして、結界まで壊したのですか」
「壊した? 違うな。調整したのです」
セルヴァンは肩をすくめた。
「辺境に災厄が寄るようにしておけば、王都は安定する。少なくとも、そう信じる者たちは多い」
「人を“寄せる場所”として切り捨てるのを、調整とは言いません」
「理想論ですな。国を守るには、線引きが必要だ」
「だから灰冠城を?」
「だから、聖女も」
ミレイユが息を呑む。
その瞬間、セルヴァンの指先が光った。床の陣が再び脈打ち、黒霧が渦を巻く。だが今度は、ミレイユが一歩前へ出た。
「もう、嫌です!」
彼女の声とともに、白い祈りが真っ直ぐ走る。以前のような不安定さはない。短く、澄んで、芯がある。床の増幅陣の一角が白く焼け、線が途切れた。
「レオンハルト様!」
「分かっている!」
セルヴァンが退くより早く、レオンハルトの剣が礼拝塔の柱を打つ。床石が揺れ、私はその隙に陣の中心へ手を置いた。
継ぎ目ではなく、断ち切る修復。
歪められた祈りの流れを“元へ戻す”ため、不要な線を剥がす。黒い墨が裂け、床の陣が崩れた。黒霧の流れが一気に弱まる。
セルヴァンは舌打ちし、逃走のための光を足元へ走らせた。完全には捕まえられなかったが、法衣の裾だけが黒く焦げて残る。
「逃がした……」
「だが証拠は残った」
レオンハルトが床の陣を見下ろす。ミレイユは震えながらも、しっかり立っていた。
大神官の仮面は、ついに剥がれた。
その夜、私は王都ルミエルで与えられた客間の窓辺でしばらく足を止めた。磨きすぎた床と香の残り香、遠くの馬車の音。どれも懐かしいのに、もう自分のものではない距離でそこにあった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、片づけきれなかった小さな道具の重みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は窓枠へ指を置き、王都にいた頃なら見逃していた小さな傷や歪みを、今ははっきり見つけられる自分を少し不思議に思った。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
王都へ戻ることは、過去へ引き戻されることと似ているようで、実際には違った。今の私は、誰かに価値を決めてもらうためでなく、自分の積み上げを持って立つためにそこへいる。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、片づけきれなかった小さな道具の重みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。善悪の札を剥がした先で、ようやく一人の人間の言葉が聞こえてくるはずだ。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。続きは『聖女の告白』になります。よろしければ次話もお付き合いください。




