母の壁画
王都ルミエルへ着いた時、春の街は以前と同じ顔をしていた。
石畳は磨かれ、店先には花が並び、噴水の水は惜しげもなく流れている。たった数週間しか離れていないのに、まるで別の国みたいだった。灰冠城で水一桶の重さを知った後では、王都の贅沢は少し眩しすぎる。
私たちが泊まることになったのは、公爵家本邸ではなく、母が生前よく使っていた離れの屋敷だった。王命による中立地扱いらしい。父はそれでも管理権を主張したかっただろうが、さすがに王の名を正面からはね除けられなかったのだろう。
「懐かしいです」
ユリアが玄関ホールを見上げる。母の趣味が色濃く残る屋敷は、本邸よりずっと落ち着いていた。派手な装飾は少なく、実用的で、どこか北辺の空気がある。
その夜、私は一人で二階の廊下を歩いた。子どもの頃、母に絵本を読んでもらった小部屋。雨の日に刺繍をした窓辺。全部覚えている。その奥の、今は使われていない書斎へ入った時、私は壁の一角で足を止めた。
「……こんな絵、あったかしら」
暖炉の上に掛けられているのは、ただの風景画に見える。だが近づくと、筆致の下に別の線が隠れているのが分かった。上塗りだ。しかもかなり急いで塗りつぶした跡がある。
私は息を呑み、そっと手をかざした。
修復魔法は、隠されたものを“戻す”時にも使える。ただし慎重にやらなければ元の絵も傷める。私はごく薄く魔力を流し、上塗りだけを浮かせていった。
やがて現れたのは、灰冠城の地下構造図だった。
城下、水路、封鍵庫、そしてさらに下に描かれた大きな円環。中央に刻まれた言葉は、古くて少し読みづらい。けれど意味は分かった。
『世界継ぎの座』
ぞくりと背筋が冷えた。
その下には、母の字で書き込みがある。
『王都の結界と灰冠城の城核は対。片方を捨てれば片方もいずれ割れる』
「……だから、切り捨てちゃいけなかったのね」
足元でハクが静かに言う。
『情報整合性、高』
「知ってたの?」
『断片的に』
私は図の端へ視線を走らせた。そこにはさらに、小さな注釈があった。
『鍵は三つでも、継ぐ意志が一つでなければ失敗する』
守護者、祈り手、継ぎ手。地下で見た三つの認証。必要なのは力だけではなく、同じ方向を見る意思だということか。
その時、廊下で足音がした。私は反射的に壁画へ布を掛け直す。入ってきたのはレオンハルトだった。
「灯りがついていた」
「母の隠し絵を見つけました」
「隠し絵?」
「母、けっこうやりますよね」
「お前も似てる」
否定できない。
私は彼へ壁画を見せた。レオンハルトはしばらく黙って図を見つめ、それから低く言う。
「王都と灰冠城が対なら、黒霧が都へも来る可能性がある」
「ええ。しかも、向こうはその自覚が薄い」
「なら審理どころではなくなるな」
「でも、なる前に終わらせたいんでしょうね。父も大神官も」
この絵は、単なる母の遺品ではない。王都が隠したかったものの証拠だ。
私は壁画を見上げながら、静かに決めた。
明日の審理は、防戦だけでは終わらせない。
その夜、私は王都ルミエルで与えられた客間の窓辺でしばらく足を止めた。磨きすぎた床と香の残り香、遠くの馬車の音。どれも懐かしいのに、もう自分のものではない距離でそこにあった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、片づけきれなかった小さな道具の重みのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。
私は窓枠へ指を置き、王都にいた頃なら見逃していた小さな傷や歪みを、今ははっきり見つけられる自分を少し不思議に思った。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。
王都へ戻ることは、過去へ引き戻されることと似ているようで、実際には違った。今の私は、誰かに価値を決めてもらうためでなく、自分の積み上げを持って立つためにそこへいる。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。
私が今見ているのは、片づけきれなかった小さな道具の重みのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。積み上げた記録や作業の一つひとつが、次には言葉の重さとして返ってくる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次話は『再断罪の法廷』です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




