王都召還
王都からの召還状は、交易路が開いてほどなく届いた。
赤ではなく青の封蝋。公爵家ではなく、王家直属の印。執務室へ持ち込まれた書面を見た瞬間、私は嫌な予感を覚えた。
「ルドルフ王陛下名義……」
「逃げ道を塞ぎにきたな」
レオンハルトが淡々と言う。
文面は丁寧だった。婚約破棄に関する正式審理、灰冠城旧相続地の権利確認、聖女候補ミレイユ・ノアの保護状況聴取。要するに、“全員そろって王都へ来い”である。
「行くしかないわね」
「断れば?」
「逆に不利です。父上が“逃げた”と使うでしょう」
「分かっていて言ってる」
レオンハルトは机に肘をつき、険しい顔をした。
私も同じ気持ちだった。王都へ戻りたくないわけではない。戻れば勝てないかもしれない、という現実があるだけだ。灰冠城では直すべきものが見える。でも王都の社交と政治は、壊れ方が見えにくい。
「でも、行かないと終わらない」
「……ああ」
ミレイユも呼ばれていた。彼女は手紙を読んだ後、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「行きます」
「無理しなくていいのよ」
「でも、わたしが黙っていたら、また誰かが勝手に話を作ります」
以前の彼女なら言えなかっただろう。ここで少しずつ呼吸を取り戻したからこその言葉だ。
出発前、私は灰冠城の中を一周した。水塔、共同挽き場、修復工房、仮橋。全部がまだ脆い。だからこそ、王都で潰されるわけにはいかない。
「お嬢様、これを」
ニコが差し出したのは、分厚い帳簿の写しだった。
「今までの工房記録と、交易の数字、黒霧戦の被害報告もまとめました」
「ありがとう」
「数字は裏切らないので」
最近、彼まで私と同じ言い回しをするようになってしまった。
出発の朝、城下町の人たちが門前へ集まった。大げさな見送りではない。ただ、必要なものを手渡すために。
クララは干しパンを、マルタは薬草包みを、ドルフは「王都の石畳で足を滑らせるな」と丈夫な靴底を、ニナは護身用の小さな短剣をくれた。
「勝ってきな、お嬢様」
「勝つというか、直してくるわ」
「同じだよ」
その言葉に、私は少しだけ笑う。
出発の直前、レオンハルトが外套の留め具を私へ差し出した。銀でできた簡素な金具で、継ぎ目の紋章が刻まれている。
「婚約者の印だ」
「今まで無かったのが不思議です」
「必要なかった」
「今は?」
「王都に見せるには必要だ」
理屈はそれだけ。でも、彼が自分の手で留め具を外套へ留めてくれた時、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
「……似合う」
「そういうことを急に言わないでください」
「本音だ」
「なお悪いです」
馬車が動き出す。
灰冠城が少しずつ遠ざかる。追放された夜は背を向けるように王都を出たのに、今は逆だ。背中を押してくれる場所ができてしまったから、離れる方が落ち着かない。
私は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
王都へ戻る。今度は、捨てられるためではなく、取り戻すために。
片づけが一段落してから、私は自然と王都ルミエルで与えられた客間の窓辺へ足を向けていた。磨きすぎた床と香の残り香、遠くの馬車の音。どれも懐かしいのに、もう自分のものではない距離でそこにあった。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は窓枠へ指を置き、王都にいた頃なら見逃していた小さな傷や歪みを、今ははっきり見つけられる自分を少し不思議に思った。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
王都へ戻ることは、過去へ引き戻されることと似ているようで、実際には違った。今の私は、誰かに価値を決めてもらうためでなく、自分の積み上げを持って立つためにそこへいる。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、磨かれた床に跳ね返る靴音や、紙の擦れる硬い音のような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に必要になるのは、今の出来事を一つ先の仕組みへ繋げることだ。目の前の解決だけで終わらせない工夫が、また増えていく。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
お読みいただきありがとうございます。続きは『母の壁画』になります。よろしければ次話もお付き合いください。




