灰冠城の防衛戦(後)
防衛戦の後半です。最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
門外の様子は、城壁の上から断片的にしか見えなかった。
吹き荒れる黒霧、赤い目、雪を跳ねる灰色の外套。巨大な黒獣が角を振り下ろし、レオンハルトがそれを紙一重でかわす。そのたびに右腕の呪いが濃くなるのが見えて、私は奥歯を噛みしめた。
「このままじゃ持たない……」
私だけでなく、イザークもそう判断していたのだろう。彼は門兵へ叫ぶ。
「槍壁を用意! 小扉が開いた瞬間に援護する!」
「でも、それだと霧が――」
「分かっている。だから一度で決める!」
私は門の内側へ駆け下りた。頭の中では、水塔、吐水口、導管、貯水槽の位置が線で繋がっている。外へ水を流せれば、足場が変わる。黒霧の巨体の動きを鈍らせられるかもしれない。
「ハク! 外門前の勾配、覚えてる?」
『肯定。旧排水路接続あり』
「使える?」
『弁の固着率四十九パーセント』
「つまり半々」
『楽観的表現です』
「ありがとう、十分よ!」
私は壁際の補助弁へ手を当てた。普段は雨水を逃がすための古い排水路。完全に死んでいると思われていたが、灰冠城はとにかく基礎だけは強い。生きているものは、意外と多い。
魔力を流す。錆びた噛み合わせ。固着した栓。回れ。少しでいい、今だけでいい。
ごり、と鈍い音がして弁が開いた。
「今!」
兵が主弁を押し上げると、貯水槽から一気に水が流れた。門前の雪面へ、冷たい水が斜めに噴き出す。夜気でたちまち薄い氷膜が張り、巨大な黒獣の前脚がずるりと滑った。
「レオンハルト様!」
彼は私の意図を一瞬で読んだらしい。滑った巨体の横へ踏み込み、剣を深く突き立てる。赤い目が大きく見開かれ、黒い身体が内側から裂けるように霧散した。
次の瞬間、周囲の狼型の魔獣たちまで動きを鈍らせた。核だったのか。兵たちの槍と矢が一斉に残りを貫き、黒霧はじりじりと後退していく。
「押し返せ! 境界灯を前へ!」
イザークの指示で、修復工房で直したランタンが前線へ運ばれた。ミレイユの短い祈りがその炎へ重なり、灯りの輪が広がる。黒霧は光を嫌うように揺れ、北の斜面へ引いていった。
しばらくして、夜が静かになった。
誰もすぐには歓声を上げなかった。死者が出ていないか、負傷者はどこか、壁は持ったか、皆が確認していたからだ。やがてイザークが大きく息を吐き、「生きてる奴は返事しろ!」と叫ぶ。あちこちから怒鳴り返す声が上がった。
それでようやく、灰冠城が持ちこたえたのだと分かった。
私は門前へ走った。レオンハルトは小扉の脇に立っていたが、右腕を押さえたまま少しふらついている。
「無茶をしすぎです」
「お互い様だ」
「私は門の内側にいました」
「排水路を開けたのは誰だ」
「修復師です」
「辺境向きだな」
いつものやり取りなのに、彼の声は掠れていた。私は返事の代わりに、その右腕へそっと触れる。まだ熱い。痛みも残っている。でも、折れてはいない。
「戻りましょう」
「……ああ」
城へ戻る途中、町の人々が門の陰から顔を出し始めた。怯えと安堵が入り混じった目。クララが真っ先に駆け寄ってきて、私の肩を掴む。
「本当に、生き残ったのね」
「ええ」
「水塔も、ランタンも、全部役に立ったわ」
「皆が使ってくれたからです」
「それでもよ」
彼女はそう言って、泣き笑いみたいな顔をした。
夜明け前、城の中庭で温かいスープが配られた。兵も職人も町の人も同じ鍋から食べる。マルタが大声で「倒れるなら食ってから倒れな!」と怒鳴り、ニナは顔を煤だらけにしたまま笑い、ミレイユは小さな祈りで負傷者の痛みを和らげて回った。
私は湯気の向こうで、ハクが静かに尻尾を振っているのを見た。
『防衛戦、第一次成功』
「第一次って言い方やめて」
『継続的脅威を考慮』
「現実的ね……」
でもその現実を、灰冠城の皆はもう知っている。
壊れかけの城は、今夜ひとつだけ証明したのだ。
まだ守れると。
片づけが一段落してから、私は自然と見張り灯の揺れる夜の回廊へ足を向けていた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。ここでひと区切りです。次話からは『灰冠の修復姫』。続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




