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灰冠城の防衛戦(前)

少し緊張感の強い回が続きます。まずは防衛戦の前半です。

 最初の衝突は、想像していたよりずっと速かった。


 黒霧ノクスから現れた狼型の魔獣は、雪の上を滑るように門前へ迫り、外壁の灯へ真っ先に飛びかかった。視界を奪うつもりなのだと直感する。だが、修復したランタンの芯座はぶれず、炎は簡単には消えなかった。


「弓、放て!」


 イザークの合図とともに矢が雨のように飛ぶ。何本かは魔獣の輪郭を裂いたが、靄の身体はすぐ閉じる。実体と霧の中間。厄介だ。


 その群れへ、レオンハルトが一人で飛び込んだ。


 灰色の外套が翻り、剣が一閃する。黒い身体が二つに裂け、今度こそ霧散した。噂どおり、いや噂以上だ。彼は強い。ただ強いだけではなく、黒霧の獣をどう斬れば消せるのかを知っている剣筋だった。


「北壁の継ぎ目、鳴ってる!」


 ドルフの怒鳴り声に私は振り向いた。城壁の一角、古い亀裂が魔獣の衝撃で広がっている。このままでは崩れる。


 私は走った。石壁へ手をつく。冷たい。振動がひどい。外から爪が食い込み、古い継ぎ石が押し出されている。完全補修なんてしている暇はない。今必要なのは、一晩だけ持たせること。


「継いで!」


 魔力を流し、ずれた石を戻す。粉が散り、ひびが細くなる。その間にも上では兵が槍で魔獣を押し返し、下ではニナたちが予備の矢束を運んでいる。誰一人、自分だけの戦場にしていない。


「水を!」


 マルタの声が飛んだ。見ると、黒霧の獣の一体が火薬壺の近くへ吐息のような黒煙を吹きつけている。あれが引火したらまずい。私は反射で水塔の方を見る。


「いけるわ」


 貯水槽からの導管。応急補修した簡易弁。完全にではないが、水を回せる。


 私は兵へ怒鳴った。

「第二弁を開けて! 西側の吐水口!」

「は!?」

「早く!」


 半信半疑の兵が弁をひねる。次の瞬間、城壁の側面に残っていた古い吐水口から水が勢いよく噴き出し、火薬壺の近くを濡らした。マルタがバケツで追い打ちをかける。


「助かったよ、お嬢様!」

「まだです!」


 門前ではレオンハルトが三体目を斬り伏せていた。だが黒霧の奥にはまだ赤い目が揺れている。数が減らない。いや、増えている。


 ミレイユが後方から祈りを捧げた。白く柔らかな光が城門の上へ広がり、兵たちの足元を包む。以前のような暴発はない。短く、確かで、必要な分だけ。


「今の、すごく綺麗だわ」

 私は壁際で言った。

 ミレイユは祈りの合間に必死で頷く。

「リディア様が、無理しなくていいって言ってくれたから……!」


 その時、門扉が大きく揺れた。重い鉄の軋み。外側から何か大きなものがぶつかっている。


 狼ではない。


「大型がいる!」


 兵の声に、空気が変わる。


 黒霧の向こうから現れたのは、角を持つ巨体だった。牛に似ているが、輪郭は崩れ続けていて、目だけが異様に赤い。門を正面から破るつもりだ。


「レオンハルト様!」

 私が叫ぶと、彼は一瞬だけこちらを見た。右腕の黒い筋が、また少し浮いている。地下で城核に触れた時の呪いが、戦いの中で疼いているのだ。


 でも彼は止まらない。


「門を開けるな! 俺が外で受ける!」


「そんな――」


 止める間もなく、彼は門脇の小扉から外へ出た。


 私は歯を食いしばる。辺境伯を信じるしかない。なら私は、壊れるものをこれ以上増やさない。


 門の蝶番。城壁の継ぎ目。足場。導管。


 灰冠城グレイヴォールは、まだ落ちない。


 少し時間を置いてから、私は見張り灯の揺れる夜の回廊へ戻った。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。忙しい一日のあとで同じ場所を見直すと、昼には見えなかった細部が浮かび上がる。石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような些細な手触りが、その日の出来事を思いがけない形で思い出させることもある。


 私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。こういう時間は誰に褒められるわけでもないし、すぐに成果になるわけでもない。それでも、誰も見ていないときに少しだけ整えておいた段取りが、翌朝の空気を驚くほど軽くする。そのことを知ってから、私は一日の終わりを前より丁寧に扱うようになった。


 守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 たぶん修復という仕事の本質は、壊れたものを元へ戻すことだけではない。壊れたあとにどう扱うか、同じ綻びを次にどう防ぐか、そしてその手順を誰かと共有できる形へ残すことまで含めて、ようやく再建と呼べるのだと思う。


 私が今見ているのは、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 そう考えると、今日起きたことはもう過去ではなく、明日の仕組みの一部になり始めている。私はその手触りを確かめるように指先を拭い、静かに戸を閉めた。

お読みいただきありがとうございます。続きは『灰冠城の防衛戦(後)』になります。よろしければ次話もお付き合いください。

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