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雪解け前夜の黒霧

 黒霧ノクスの前兆は、雨のようには来なかった。


 空が急に暗くなるわけでも、地面が揺れるわけでもない。ただ、風が変わった。灰冠城グレイヴォールの北側から吹く空気が、いつもより重く、湿り気を失っていく。鼻の奥で鉄のような匂いがする。兵たちはその匂いをかいだだけで顔つきを変えた。


「来るのですか」

 私は城壁の上でレオンハルトへ訊いた。

「小規模なら追い払える。大きければ町へ入れない」

「大きさは?」

「読めん」


 その答えが一番厄介だ。


 ハクは城壁の縁を歩き回り、一定間隔で報告を上げていた。


『北東斜面、異常濃度上昇。魔獣反応、複数』

「数は?」

『増加中』


 兵が走り、鐘が鳴る。城下町ハイゼルでは市場の片づけに慣れた手つきで、今度は防衛の準備が始まった。荷車が門内へ入り、外壁沿いの家から子どもと年寄りが避難し、鍛冶場ではニナたちが急いで矢尻を打つ。


 私は修復工房へ戻り、これまで直したものを見回した。ランタン、水差し、鍋、窓枠。戦いの道具ではない。けれど暮らしを守る道具だ。黒霧が来るということは、これら全部を奪われる可能性があるということでもある。


「お嬢様」


 ユリアが防寒外套を持ってくる。


「前へ出るつもりですか」

「出ます」

「止めても無駄ですね」

「ええ」

「知っていました」


 彼女は溜息をつきながらも、しっかりと外套の紐を結んでくれた。


 ミレイユは礼拝堂代わりにしている小部屋で、灯りを前に静かに座っていた。以前のような強引な祈りではなく、呼吸を整えるような、短い祈り。彼女の周囲だけ空気が澄んでいる。


「大丈夫?」

「怖いです。でも、ここで黙っている方がもっと怖いから」


 その答えは、十分すぎるほど立派だった。


 夜になると、城の北側に薄い靄が見え始めた。霧と呼ぶには黒すぎる。光を吸い、輪郭を曖昧にし、その中で赤い目だけが点る。兵たちが一斉に構えた。


「門を閉じろ! 外壁の灯を全部つけろ!」


 イザークの怒号が飛ぶ。修復したランタンが次々と灯され、城門前の視界が確保されていく。昼間ならただの道具に過ぎなかったものが、こういう時には命綱になる。


 私は水塔の方角を見る。貯水槽は満ちていた。共同挽き場も動いている。工房の扉も新しくした。全部、守りたい。


「リディア」


 隣に立ったレオンハルトの声は低く静かだった。


「前線には出るな」

「修復はします」

「壁の内側でだ」

「状況によります」

「言質を取らせないな」

「辺境向きに調整中ですので」


 こんな時でも、その返ししかできない自分に少し呆れる。けれど彼は怒らなかった。ただ短く息を吐き、剣の柄へ手を置く。


「俺が前に出る。お前は壊れたところを繋げ」

「はい」

「ミレイユの祈りは後方。絶対に無理をさせるな」

「分かりました」


 やがて黒霧ノクスの中から、最初の影が現れた。


 狼型の魔獣。水塔の夜に見たものより、ずっと大きい。毛並みではなく靄そのものが形を取っているような身体。続いて二体、三体。


 灰冠城の夜が、戦場へ変わる。


 私は自分の手袋をきつく引いた。


 今度の修復は、物だけでは済まない。


 その夜、私は見張り灯の揺れる夜の回廊でしばらく足を止めた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。賑やかな場面や大きな会話が終わったあとほど、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような小さなものが妙にはっきり見えてくる。私はそういうときほど、わざと手を止めず、呼吸だけを落ち着かせるようにしている。


 私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。誰かが湯を置いていく音や、廊下を通り過ぎる足音が遠くに混じるたび、今日一日がまだ完全には終わっていないのだと分かる。大きな出来事は一度で形を変えるけれど、暮らしの方はそのあともずっと、遅れて追いついてくる。


 守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 王都にいた頃の私は、結果の名前ばかりを気にしていた。勝ったか、負けたか、選ばれたか、外されたか。でも今は、その一段手前にある『明日も回るかどうか』の方がよほど重い。今日の判断が誰か一人を楽にし、その余力がまた別の仕事へ回るなら、それだけで十分に意味がある。


 私が今見ているのは、石の継ぎ目と見張り灯のかすかな震えのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。


 きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。次に向き合うのは、壊れていることすら当然になっていた城そのものだ。だから最初の一手が、きっと大事になる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 私は最後に手元の小さな綻びだけ直し、明日に回すべきものを帳面へ書きつけてから、ようやく灯りの方へ歩き出した。

ここまでありがとうございます。次話『灰冠城の防衛戦(前)』も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

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