査察団は辺境を侮る
市場の翌々日、王都よりさらに面倒な来客が来た。
今度は父の法務官ではない。王都監査院と星殿の合同査察団。名前だけ聞けば立派だが、実際に現れた一行の顔つきは“辺境の粗探しをしに来た”と書いてあるようなものだった。
「ずいぶん、雑然としておりますな」
査察団長を名乗った男は、城門をくぐった瞬間にそう言った。絹の手袋をした指先が、中庭の修復資材をいかにも不快そうにつまむ。
「生きた城なので」
私は笑顔で返す。
「飾りより先に直すものが多いんです」
男の眉がぴくりと動いた。嫌味がそのまま戻ってきたのだから、面白くないのだろう。
「王都では、元王太子妃候補が辺境伯を惑わし、旧領を私物化しているとの噂もあります」
「市場の売上帳簿と修復工房の依頼票をご覧になりますか?」
「……は?」
「私物化ではなく公共運営だと、数字で分かりますので」
ニコが待ってましたとばかりに帳簿を差し出した。彼は査察団が来ると聞いてから二晩かけて書類を整理していたのだ。依頼数、対応数、資材使用量、共同挽き場の稼働時間、水塔復旧後の給水量。地味だが、嘘より強い。
査察団長は露骨に嫌そうな顔でそれを受け取る。
だが星殿側の随員の一人が、ミレイユを見つけて声を上げた。
「聖女候補様! ご無事でしたか!」
「……はい」
ミレイユは少し身をこわばらせた。私はその前へ半歩だけ出る。
「彼女は現在、静養中です」
「静養? 星殿の許可なく?」
「星殿が彼女を鍵付きの部屋へ閉じ込めていた件の許可も、私はまだ見ていませんが」
場が凍る。
随員の顔色が変わった。言い返したいが、事実かもしれない以上、強く否定できないのだろう。ミレイユは私の袖をそっと掴んでいた。震えてはいるが、逃げていない。そのことに、私は内心でほっとする。
査察は丸一日続いた。食料庫、兵舎、工房、市場跡、水塔。査察団は何かしらの不備を見つけようと懸命だったが、見つかるのはむしろ“よくこの条件で回している”という痕跡ばかりだ。壊れたままの場所はまだ多い。けれど、それが放置ではなく改善途中だと書類が示している。
夕方、査察団長は執務室で不機嫌そうに言った。
「少なくとも、表向きは回っているようですな」
「表向きでは困りますか?」
レオンハルトが低く返す。
「灰冠城が回ると、どなたかの都合が悪い?」
王都の役人は口を噤んだ。
星殿側はもっと分かりやすかった。ミレイユを連れ戻したいのだ。だが本人が「帰りたくありません」とはっきり言った瞬間、彼らは強く出られなくなった。聖女候補を無理やり引きずる姿を、辺境伯の城で見せるわけにはいかない。
査察団が去る前、団長は私へだけ聞こえる声で言った。
「公爵令嬢。少し上手くいったからといって、長く続くと思わぬことです」
「ありがとうございます」
「何がです」
「脅しではなく忠告として受け取っておきます」
彼は舌打ちし、馬車へ乗り込んだ。
見送りの後、ニナが大きく伸びをする。
「感じ悪かったなー」
「ええ。でも、数字で殴るのは効いたでしょう」
「またその言い方」
「最近ちょっと気に入ってるの」
そう答えると、マルタに頭を軽く叩かれた。
けれど完全に安心はできない。帰り際、星殿の随員が残した視線は、妙に冷たかった。あれは“見た”目ではなく、“測った”目だ。灰冠城がどこまで動いているのか。ミレイユが何を話したのか。王都はきっと、次にもっと直接的な手を打ってくる。
その夜、ハクが窓辺で耳を立てた。
『北方外縁、魔力濃度上昇』
「……それって」
『黒霧発生前兆の可能性』
査察の次は、もっと分かりやすく面倒なものが来るらしい。
片づけが一段落してから、私は自然と見張り灯の揺れる夜の回廊へ足を向けていた。風は冷たく、城壁の継ぎ目には夜露が滲んでいたが、以前のような死んだ静けさではなく、守るべき暮らしの気配があった。何かが大きく動いた日ほど、あとから見つかるのはいつも封蝋の欠けた手紙や、頁の端の擦れのような細部だ。けれど経験上、そういう小さな見落としの方が、放っておくと案外長く尾を引く。
私は足を止めるたびに今日の会話や判断を思い返し、次に手を入れるべき箇所を一つずつ心の中で数えた。手を動かしていると、不思議と頭の中の順番も整っていく。誰に何を伝えるべきか、どこまでを今日のうちに済ませるべきか、何を明日の自分や別の誰かへ渡すべきか。考えるべきことは多いのに、以前ほど一人で抱え込む焦りは強くなかった。
守るものが見えてしまうと、もう以前のように自分一人の安全だけを考えることはできない。だから判断は重くなるのに、不思議と足取りは前よりも定まっていった。 私はようやく、強さとは全部を背負えることではなく、綻びを早く見つけて、正しい相手と分け合えることなのだと理解しつつある。だから今日の出来事も、感情だけで終わらせず、記録と手順と小さな改善へ落とし込んでおきたいと思った。
私が今見ているのは、封蝋の欠けた手紙や、頁の端の擦れのような、誰かが見落としても不思議ではない細部ばかりだ。けれど実際に町や城を支えるのは、いつもそういう小さな部品の方だった。派手な奇跡より先に、綻びを見つけて、記録して、次の人が迷わず触れる形へ直しておくこと。そういう地味な手順が積み重なって、ようやく暮らしは丈夫になる。
きっと明日になれば、また別の形をした不足が見つかる。平穏が形になった直後ほど、それを奪うものは濃く近づいてくる。。それでも今は、次に何を直すべきかを考えること自体が、前へ進んでいる証拠だと知っていた。 終わったはずの一日が、そうして少しだけ明日へ食い込んでいく。その感覚を嫌だと思わなくなったことが、たぶん今の私の一番大きな変化だった。
読んでくださってありがとうございます。続きは『雪解け前夜の黒霧』です。次話もよろしくお願いします。




