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山羊男降誕

農具や工具などが置かれた薄汚れた物置小屋。埃と湿気、そして餌の代わりに出される残飯の匂い。ここが、一頭の山羊にとっての世界の全てだった。


その角は片方が折れ、痛々しい姿を晒している。白い体毛は汚れでくすみ、山羊はただ、目の前に置かれた餌の代わりの野菜くずや肉の端切れが混ざったべちゃべちゃした残飯を草の代わりに食べさせられていた。


だが、山羊の体は小さく震えている。

小屋の外から聞こえてくる、徐々に近づいてくる鈍い足音。それが近づくたび、山羊の心臓は委縮するかのように打ち鳴らされた。


物置小屋の扉が乱暴に開け放たれる。

そこに立っていたのは、小太りの中年男、ギノだった。今日の彼は一段と機嫌が悪い。


「……おい、おれが怖いのか?」


ギノは壁に掛かっていた短くて鞭ほどは太いロープを手に取ると、風を切る音と共に山羊の背中を容赦なく叩きつけた。


「メェッ!」


悲痛な叫び声。だが、ギノの怒りは止まらない。


「昼間からついてねぇんだよ! ポーカーで全敗だ。イカサマか、それとも神様が俺を見捨てたか……どっちにしろ、頭にくる!」


ギノは山羊の首に巻かれたロープを掴み、動きにくいように柱に極端に短く結びつけた。首が吊り上がるような体勢に山羊がもがくと、男は満足げに笑い、手に持っていた火のついたタバコを、怯え切った山羊の鼻の上あたりへと押し付けた。


ジジッ、と毛が焼ける音と、山羊の悲鳴が小屋に響く。


「メェエエェッ!」


「うるせぇな!」


ギノは怒りまかせ額を殴りつけた。


満足したのか、ギノは最後にロープを元の長さに戻した後で山羊を本気で蹴り飛ばした。小屋の壁に叩きつけられた山羊は、食べたばかりの残飯を床に吐き出し、力なく横たわる。


ギノはタバコの箱を振ったが、中身は空だった。

「チッ、タバコ切れかよ」


舌打ちをして、男は倒れた山羊を一瞥もくれずにドアを乱暴に閉めて小屋を後にした。

母屋の引き出しから財布を掴み、買いに行くのを面倒そうな悪態をつきながら街へと出かけていく。


物置小屋に、再び沈黙が訪れる。

山羊の瞳から光が消えかけていた。意識が遠のき、暗闇へと沈みかけていた、その時だった。


――異変は、静かに始まった。


山羊を中心にして、周囲の空気が蜃気楼のようにユラユラと歪む。

倒れた山羊の体が、不自然かつ不気味にむくむくと膨らみ始めロープでつながれていた首輪がちぎれた。骨格や、筋肉が異常な速度で人の形に構成されていく。


四肢が伸び、白い毛に覆われたまま、その体格は人間の成人、ギノの背丈ほどに巨大化した。アスリートやボクサーのような筋骨隆々とした体形へと変貌を遂げる。

最後に、頭部が歪な形を整え始めた。


山羊の頭部。黄色い瞳。そして毛に覆われた中柄の引き締まった体格。

それは、かつての「山羊」ではない。世界にとっても歪な「山羊男」になったのだった。


「…フーフー…」


山羊男は、荒い息を吐きながら自分の手を見た。人のような手と指が不器用に動く。

一度は転んで立ち上がり、ふらふらと慣れないような足取りで扉を開け、外の世界へと這い出した。


陽光を浴びて目が一瞬くらむ。

ふと、視界に見慣れたものが目に留まった。物干しロープに干してあった、ギノの紺色の半ズボンだ。

山羊男はそれを目に覚えがあるかのように手に取ると、不器用に足を通して履いた。


その異様な光景は、すぐさま近所の住人の目を驚愕させた。


「あ、ありゃなんだ……!? ギノの小屋から、化け物が……!」


目撃者はあまりの常識からかけ慣れた光景に恐怖の声を漏らした。山羊男は驚いたように周囲を見渡し、怯えながら小屋から逃げて行ったのであった。


山羊男はうろちょろして通行人に怖がられたり、嘲笑されたり周囲のびくびくしながら時々、街の通りを小走りで駆け抜けた。


「外・・・ど・・こ?」


山羊男は一刻も早く、街の外へ脱出したかった。どこか、遠くの暴力がない草がある原っぱに出たいだけだった。



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