『猫のお話⑦ 「もういっかい人間になってみた!」』
安全教室を開いた翌日のことである。
太郎は夕暮れ時のパトロールとして、静まり返った大通り沿いの路地を歩いていた。
かつてのように血気盛んに縄張りを競うことはなくなったが、街の安全を見守るボスの目は、今も曇ってはいない。
ふと、太郎の耳がぴくりと動いた。
大通りの向こう側から、何やら重たい荷物を引きずるような、不自然な足音が聞こえてくる。
見ると、そこには見覚えのある、少し古びた風呂敷包みを背負った、片耳の垂れた不思議な野良猫の姿があった。
以前、のり子に「高級またたび」と引き換えに「七色カリカリ」を渡してくれた、あの謎の猫商人だった。
商人は、何やら珍しい品をたくさん詰め込んでいるのだろう、自分の体ほどもある大きな包みを背負い、ふらふらとした足取りで、今まさに大通りを渡ろうとしていた。
(……おい、あいつ、何考えてやがる)
大通りのすぐ先からは、猛スピードで走ってくる鉄の塊――乗用車のヘッドライトが迫っていた。
商人は重い荷物のせいで、近づく車の轟音にも、強烈な光にも気づいていない。
光に照らされた瞬間、商人は太郎が安全教室で教えた通り、恐怖で体がすくみ、道路の真ん中で立ち往生してしまった。
「びゃーーん(そこを動くなっ!)」
太郎は腹の底から声を張り上げた。
丸くなった体からは想像もつかない瞬発力で、アスファルトを力強く蹴った。
車がクラクションを激しく鳴らし、急ブレーキの甲高い音が響き渡る。
その直前、太郎は商人の体に横から弾丸のように体当たりした。
二匹の体は重い風呂敷包みごと、道路の反対側の柔らかい茂みの中へと転がり込んだ。
ドゴォン、と凄まじい風圧が二匹の頭上を通り抜けていく。
間一髪だった。
茂みの中で、商人は目を白黒させながら、自分の無事な体と、散らばった荷物を見つめていた。
「す、すげえ……さすが親分だ。命拾いしました……」
商人はガタガタと震えながら、太郎に何度も深く頭を下げた。
太郎はふうっと大きく息を吐き、乱れたブチ模様の毛並みを整えながら、少し不機嫌そうに唸った。
「バカ野郎。荷物が重いときは、もっと広い場所を渡るか、車が完全に途切れるまで待つんだ。命より大事な荷物なんか、この世にありゃしねえ」
「へえ、本当にその通りです……」
商人は恐縮しながら、散らばった荷物を集め始めた。
見たこともない、何に使うのかわからない品物がそこら中に散乱していた。
太郎も商品を拾い集めるのを手伝った。
ひときわ不思議な輝きを放つ、七色に光る小さな粒をつまみ上げた。それは、太郎にも覚えがあるものだった。
「親分、命を救ってくれたお礼です。その七色カリカリ、今の親分なら、きっと正しく使えます。持って行ってください」
太郎はその七色の粒――あの「七色カリカリ」をそっと口に咥えた。
商人は再び風呂敷包みを背負うと、「それじゃあ、またどこかで」と、煙のように夜の闇へと消えていった。
翌日の朝、小谷家に嬉しい報せが舞い込んできた。
おばあちゃんの病室から電話があり、いよいよ今日の午後、無事に退院できることになったのだ。
「おばあちゃん、やっとお家に帰れるんだね!」
のり子は受話器を置くとリビングで、大喜びで飛び跳ねた。
窓辺にいたミケも、嬉しそうに「にゃーん、にゃん」と鳴きながら、細い尻尾をパタパタと振っている。
おばあちゃんの病室には、猫の姿のまま、太郎の付き添いで何度かお見舞いに行っていたが、おばあちゃんと、また一緒の生活ができると聞いて、嬉しくて仕方がないのだろう。
のり子がおばあちゃんの家のお迎えの準備を始めようとしたその時、太郎がおもむろに歩み寄り、のり子の足元にぽとりと何かを落とした。
のり子がそれに気づいて、拾おうとしたが、太郎が前足で七色カリカリを抑えて、真剣な顔でのり子の方を見つめてきた。
「なによ太郎、そんな拾って食べないから!」
のり子は、ちょっと頬を膨らまして太郎に言った。
太郎が、前足をどけると、
それは、七色に優しくきらめく、不思議なカリカリだった。
「あ、これ……! 太郎、また見つけてきてくれたの!?」
のり子は驚いて目を丸くし、それから床に座り込んで、太郎とミケの顔を交互に見つめた。
おばあちゃんはリハビリを頑張って退院するけれど、まだ一人暮らしに戻るには、体も少し心配なはずだ。
(もし、ミケがおばあちゃんの退院を、人間の女の子の姿でお迎えに行けたら……。どんなに喜んで、安心してくれるだろう)
のり子の頭の中に、温かいサプライズの計画がひらめいた。
「ミケ、これ、おばあちゃんのために使おう。一緒にお迎えに行くんだよ」
ミケは、のり子の言葉を理解したように、静かに、そして力強く「にゃん」と返事をした。
のり子と、太郎、ミケは、病院までの慣れた道を、ひとりと二匹で連れだって歩いた。
ミケは、跳ねるような足取りだ。
のり子は、七色カリカリがポケットの中にあることを何度も確かめた。
太郎は、周囲の警戒を怠らない。
病院に着くと、のり子はさっそく、七色カリカリをミケにくわえさせると、草むらの陰に誘い込んだ。
淡い光が草むらから出たと思ったら、人間の姿になったミケがその中から出てきた。
のり子は、前回と同じように太郎に待機を伝えると。
人間になったミケと一緒に病院の中に入って行った。
午後の病院のロビーは、静かな光に包まれていた。
のり子の隣には、おかっぱ頭に三色の可愛らしいリボンをつけた女の子――ミケ子が、少し緊張した様子でちょこんと座っていた。
「ミケ子、大丈夫。おばあちゃん、もうすぐ来るからね」
のり子が優しく手を握ると、ミケ子は「うん!」と元気よく頷いた。
その頃太郎は、勝手知った病院の裏庭へと向かった。
当然、婦長さんのごはん目当てだ。
裏に回ると、休憩中の婦長さんが、地域猫たちにご飯をあげているところだった。
太郎が進んでいくと、自然と猫場所を開けて、婦長さんのところまでの道を開けた。
婦長さんは、太郎を見つけると、
「先日は、素敵なお祭りに呼んでくれてありがとう」
山盛りのご飯を太郎の前に差し出した。
太郎は、小さく、にゃんとだけ鳴き、ご飯を頬張った。
婦長さんは、そんな様子を少しの間、優しく眺めていたが、病院の中に戻って行った。
やがて、ロビーの奥から、車椅子を押されたおばあちゃんが、婦長さんに見守られながらゆっくりと姿を現した。
おばあちゃんは、まだ少し足元が弱々しいけれど、背筋を伸ばし、晴れやかな笑顔を見せている。
「おばあちゃーん!」
ミケ子は我慢できなくなり、おばあちゃんのもとへと真っ直ぐに駆け寄った。そして、おばあちゃんの膝元にしがみつくようにして、その温かい手をぎゅっと握りしめた。
「おや……のり子ちゃん。それに、この子は……」
おばあちゃんは首をかしげたが、ミケ子の手を握った瞬間、その目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「ああ、ミケ……ミケなんだね。また会いに来てくれたんだね」
婦長さんは、のり子とミケ子に、
「おばあちゃんは、とっても頑張って、信じられないくらい回復が速かったのよ。
きっとお見舞いに来た、小さな天使のおかげね」
そういって、優しく微笑みました。
「うん、おばあちゃん! 退院おめでとう! 私、ずっとずっと待ってたんだよ」
ミケ子は人間の言葉で、おばあちゃんに精一杯の愛を伝えた。
そして、おばあちゃんの目を真っ直ぐに見つめ、小さな肩を少し揺らしながら、真剣な声で続けた。
「おばあちゃん、私ね、どうしてもお願いがあるの。お家に帰ったら、壁にある『非常ボタン』を、もっと低い場所に付け替えてほしいの」
「非常ボタンを……低い場所に、かい?」
おばあちゃんは驚いて、ミケ子の顔を見つめた。
「うん。この前、おばあちゃんが倒れたとき、ボタンがすごく高いところにあって、私の手じゃ全然届かなかったの。
太郎の背中に乗って、一生懸命背伸びをして、やっと押せたみたいなの。
だから、私の手が届く低い場所にボタンがあったら、もしまたおばあちゃんが痛い痛いになっても、私がすぐにボタンを押して、助けてあげられるから。
お願い、おばあちゃん、約束して」
ミケは、真剣なまなざしでおばあちゃんを見つめます。
ミケ子の言葉には、おばあちゃんを守りたいという、健気で、一途な決意が満ちていた。
その言葉を傍らで聞いていた婦長さんは、静かに胸を打たれ、眼鏡の奥の目を潤ませた。
「そうね、おばあさん。この優しいミケ子ちゃんの言う通りだわ。
退院後の訪問サポートのスタッフに私から伝えて、お家に戻ったらすぐに、ボタンの位置を猫ちゃんでも届く低い場所に移すように手配しましょう。
この子が、いつでもあなたを守れるようにね」
「ありがとう……ありがとうね、ミケ」
おばあちゃんはミケ子を強く、愛おしそうに抱きしめた。
ロビーの大きな窓から、初夏の柔らかな黄金色の夕陽が差し込み、二人を優しく包み込んだ。
第四章 夕暮れの帰り道
抱きしめ合う温もりの中で、淡い光が優しく揺れ、ミケ子の姿は静かに、いつもの愛らしい三毛猫の姿へと戻っていった。
おばあちゃんは、もう網戸越しではなく、自分の腕の中で柔らかく喉をゴロゴロと鳴らすミケを、何度も何度も撫でた。
一応の用心のため、車いすを借りておばあちゃんを乗せた。
のり子が、車いすを押して病院をでると、
そこには、ふっくらとしたお腹を誇らしげに膨らませた太郎が、ひっくり返っていびきをかいていた。
「太郎帰るわよ」
のり子が太郎にそう言うと、太郎は眠そうな目を少しだけ開けて、立ち上がった。
ミケとおばあちゃんの姿を見ると、太郎は先に警戒するように歩き出した。
「さあ、みんなでお家に帰ろうね」
のり子が笑いながらおばあちゃんの荷物を持ち、ゆっくりと車いすを押した。
オレンジ色に染まる歩道を、のり子、おばあちゃん、ミケ、そして太郎の影が、仲良く並んで長く伸びていく。
もう、誰も寂しい思いをすることはない。
美味しいお出汁の匂いがする我が家へ向かって、一行は温かい夕暮れの中を、ゆっくりと、幸せそうに歩き続けた。
おしまい




