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『猫のお話⑥ 「安全教室やってみた!」』

小谷家のリビングでは、朝の陽光がテーブルに優しく差し込んでいた。


のり子がトーストを頰張りながら、目をキラキラさせて言った。

「ねえねえ、今日学校で安全教室あるんだって! 宅急便のお兄さんが来て、車のお話してくれるんだよ。道路の渡り方とか、危ないところとか教えてくれるって!」

お母さんが微笑みながら卵焼きをのり子の皿にのせた。

「へえ、いいね。のり子、ちゃんと集中して聞いておいでよ」

お父さんが新聞を折りたたみながら、穏やかだが真剣な声で続けた。

「そうだな。人間も猫も、道路を渡るときは十分気を付けないと。急に飛び出したり、スマホを見ながら歩いたりしたら危ないぞ。のり子も、お母さんも、ちゃんと左右を見てから渡るんだ」

「うん、わかった! 太郎も気をつけないとね」

のり子が笑いながらそう言うと、三人とも少し笑った。

その会話は、縁側に丸くなっていた太郎の耳にもはっきりと届いていた。


(……ふん、人間も鉄の塊には注意するように学ぶんだな……)


太郎は目を細め、ふっくらとしたお腹をゆっくりと毛繕いした

人間の親子が話す「安全」の言葉が、自分の胸に静かに響いていた。


のり子が学校へ出かけ、お母さんが洗濯物を干し終えた後のリビングは、驚くほど静かになった。日差しがぽかぽかと差し込む特等席で、太郎は自分の体をもう一度丁寧に整えた。

(……すっかり体が重くなっちまったな)

のり子の家の子になってからというもの、戦う必要も獲物を探す必要もなくなり、毎日美味しいご飯が当たり前のように出てくる。かつて「街一番の武闘派」と恐れられたしなやかな筋肉は、今や柔らかく暖かな脂肪の下に隠れてしまっていた。

だが、どれだけ丸くなろうとも、太郎にはこの街のボス猫としての「責任」があった。


お母さんが買い物に出かける隙を見計らい、太郎は器用に網戸を頭で押し開けて、するりと外へ抜け出した。


乾いたアスファルトの匂い、風に乗って運ばれてくる魚の香り、そして他の野良猫たちの微かな気配。外の空気を吸った瞬間、太郎の丸い瞳に、かつての鋭い「戦士の光」がほんの一瞬だけ戻る。


まずは魚屋の裏へ向かった。生臭い匂いが強烈に鼻を突く。以前なら即座に飛び込んでいた新鮮な魚が、今日もコンテナの陰でキラキラと光っている。


(……我慢だ。我慢。我慢。今はのり子の家のご飯がある。最近は、婦長さんのおやつもあるし……また太るな……)


太郎は大きく息を吐き、尻尾をピンと立ててその場を後にした。


次に、公園の茂みを通った。

「親分、今日も元気そうじゃねえか」

古株の三毛猫が木の根元で日向ぼっこをしながら声をかけてくる。

「若い奴らがまた喧嘩してたな。ちょっと一言言ってやってくれ」

太郎は低く「にゃー」と返事をして、茂みの中をのっそりと進んだ。縮こまっている若い猫二匹を見つけ、軽く前足で頭をはたいた。

「縄張りの中で無駄なケンカすんな。怪我したら、誰も守ってやれねえぞ」


学校の裏手を通りかかると、ちょうど昼休みの賑やかな声が聞こえてきた。フェンスの隙間から中を覗くと、のり子の明るい笑い声が風に乗って飛んでくる。

太郎はしばらくその場に座り、耳を傾けていた。

(……元気でやってるな)


川沿いの道を歩いていると、突然、前方から若い元気なオス猫の声が聞こえた。

茶トラの若いオスが、興奮した様子で道路に向かって勢いよく走り出そうとしている。向こう側に落ちた魚の残骸が見えたらしい。

「待てっ!」

太郎は太い声で叫び、全力でその若い猫の後ろに飛びついた。丸くなった体とは思えない素早さで前足を伸ばし、首根っこを軽く押さえつける。

直後、大きなトラックが風を切って目の前を走り抜けた。風圧で二匹の毛が激しく揺れる。

若いオス猫はびっくりして尻尾を膨らませ、地面にへたり込んだ。

「親分……! す、すみません……」

「にゃーん、にゃ(バカ野郎。命を粗末にするんじゃねえ)」

太郎は低く唸りながらも、優しくその背中を一撫でした。

心臓がまだ早鐘のように鳴っている。若い猫の体が小さく震えていた。


(……このままじゃいけない)

太郎は胸の奥で強く思った。


(若い奴らが次々と危ない目に遭ってる。このままじゃ、また誰かを失う。今日こそ、ちゃんと安全教室を開くか……みんなに、鉄の塊の恐ろしさを叩き込まねえと)


そう決意を固めた太郎は、若いオス猫を連れて住宅街の裏手にある古い空き地へと足を向けた。

そこには、三丁目の若い野良猫たちや、しまねこ、ミケといったいつもの面々が集まっていた。

太郎が空き地の入り口に姿を現すと、それまでじゃれ合っていた若い猫たちが、ぴんと耳を立てて一斉に直立不動になった。

「あ、親分が入ってきたぞ!」

「お疲れ様です、親分!」

しまねこが嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってくる。

「ボス、今日も一段と貫禄が増しましたね! そのお腹、まるでもっちもちのクッションみたいだ!」

「うるせえ。これは冬に備えた蓄えだ」

太郎は低く唸ってごまかしたが、若い猫たちはクスクスと笑った。しかし、太郎が空き地の真ん中にある、少し高くなった古タイヤの上にどっしりと腰を下ろすと、場の空気が一瞬できゅっと引き締まった。


「おい、お前ら。よく聞け。今日の集会は、縄張りの話じゃねえ。『鉄の塊』の避け方についてだ」

太郎の声は、低く、重く、腹の底から響くような響きを帯びていた。

古タイヤの上にどっしりと腰を下ろしたその姿は、丸くなった体など微塵も感じさせない威厳に満ちていた。

若い猫たちは、お互いに顔を見合わせて小首を傾げた。

「鉄の塊って……人間の乗ってる車のこと?」

「あんなの、近づいてきたら走って逃げれば平気だよ」

のんびりとあくびをしながら答えた若い茶トラの頭を、太郎は容赦なく前足で軽くはたいた。

「バカ野郎。あいつらを甘く見るな!」

太郎の声が一気に鋭くなった。

「あいつらは、お前たちの何倍も、何十倍も速い。俺たちの視界の外から、突然現れる。特にお前らのようにまだ体が小さくて、動くものにすぐ気を取られる半人前は、一瞬の油断が命取りになるんだ」

若い猫たちは、さっきまでの余裕が一瞬で消え、耳をぴったりと倒した。

太郎はゆっくりと目を細め、胸の奥から絞り出すように続けた。


「……俺がこの街のボスになる前はな、何匹もの仲間が鉄の塊の餌食になった。


春に生まれたばかりの子猫が、母親の後を追いかけて道路に飛び出した。

夏の夜、魚の匂いに夢中になった若いオスが、ヘッドライトに照らされて一瞬で消えた。

秋の雨の日には、仲間同士でじゃれ合っていた三匹がまとめて轢かれた。

……俺は何度も、血の匂いがするアスファルトの上で、動かなくなった体を抱いたよ」

空き地に重い沈黙が落ちた。

しまねこが、そっと息を飲む音さえ聞こえた。

太郎は前足を地面に押しつけ、声を少し低くした。

「俺はボスになった。だから、あの頃の無駄死にを、もう二度と繰り返させねえ。

俺がこの街にいるうちは、誰も死なせない。お前ら若い奴も、地域の仲間も、みんな生きて、この街を歩き続けるんだ。それが……俺の、ボスとしての責任だ。絶対に、守り抜く」

その言葉には、静かで、しかし鉄のように固い決意が込められていた。

若い猫たちの瞳に、初めて本当の「畏れ」と「信頼」が宿った。

「いいか、よく覚えろ」

太郎は姿勢を正し、一語一句を刻み込むように言った。

「まず、大通りを渡るときは絶対に『茂みから急に飛び出すな』。人間は下にいる俺たちのことなんか見てねえ。道路の手前で必ず一度止まれ。体を低くして、耳を澄ませ。鉄の轟音が完全に聞こえなくなってから、一気に走り抜けるんだ。途中で絶対に立ち止まるな。迷ったら死ぬぞ」

「はい、親分……!」

「それから夜の道だ。あいつらは目から強烈な光を放つ。あの光を正面から見つめると、体がすくんで動けなくなる。光が見えたら、決してそっちに向かうんじゃねえ。影の中に飛び込め。お前たちの小さな体なら、闇に溶け込むのは簡単だ。光を避けながら、横へ移動するんだ」

しまねこが真剣な顔で前へ出てきた。

「親分、雨の日はどうですか? 路面が滑って、止まりにくいって聞きましたけど……」

太郎は頷き、静かに答えた。

「いい質問だ。雨の日はさらに慎重になれ。音が聞こえにくくなるし、車も滑りやすい。渡るなら、もっと広い場所を選べ。人間が止まりやすい信号の近くがいい。慌てるな。命より大事なものなんて、この世にゃあない」

若い茶トラが、さっきはたかれた頭をさすりながら小さく言った。

「……親分、俺、前に危なかったんです。親分がいなかったら、今頃……」

太郎は優しく、しかし力強くその頭に前足を乗せた。

「だからこそ、今日ここで学べ。俺はもう、お前らを失いたくねえ。一匹でも欠けたら、俺の心に穴が開く。わかるか?」

若い猫たちは、揃って深く頭を下げた。

「はい、親分……!」

「絶対に、守ります……!」

太郎の丁寧で、どこか必死さすら感じる「交通安全教室」に、若い猫たちはこれまでで一番真剣に耳を傾けた。


ボス猫としての強さとは、ただ喧嘩が強いことではない。

群れを、仲間を、その命を守り抜く覚悟なのだと、彼らは太郎の丸くなった背中から、確かに学んでいた。


安全教室を終えた後、太郎は病院の裏手へと足を向けた。

あの日、おばあちゃんとミケを繋ぎ、そして婦長さんに奇跡の「満月猫森集会」をプレゼントしたあの場所だ。


「にゃーん」

病院の勝手口の近くで太郎が低く鳴くと、トタン屋根の上や、室外機の影から、のんびりとした地域猫たちが顔を出した。

「よお、太郎。最近は随分と温かいところで寝てるらしいじゃないか」

「飼い猫の匂いがするねぇ、幸せそうだ」

地域猫たちは口々に冷やかしたが、その声には温かい親愛の情がこもっていた。太郎がこの街のボスとして睨みを利かせているからこそ、彼らもこうして穏やかに暮らすことができているのだ。


ガチャリ、と勝手口のドアが開いた。

「あら、太郎ちゃん。今日もパトロールの途中?」

白衣の上にエプロンをかけた婦長さんが、優しい笑顔で顔を出した。その手には、太郎が大好きな、ちょっと高級なパウチの缶詰が握られている。

「はい、これ。今日もみんなを守ってくれてありがとうね」

婦長さんは太郎のお皿にたっぷりとご飯を盛り、その大きな頭をゆっくりと撫でた。

太郎は目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、美味しそうにご飯を口に運んだ。のり子の家のご飯も美味しいが、ここで婦長さんから「お疲れ様」ともらうご飯の味は、また格別だった。

「ルナも、きっと空の上から、あなたのことを見守ってくれているわよ」

婦長さんが静かに呟いた言葉に、太郎はふと食べる手を止め、昼下がりの青い空を見上げた。そこには、ルナの純白の毛並みのような、白いちぎれ雲がぽつんと浮かんでいた。


パトロールを終え、そろそろお腹も満ちて眠くなってきた頃、太郎は家路へと向かう坂道を歩いていた。


夕陽が街を橙色に染め、電柱の影が長く伸びている。

「あ、太郎ーー!」

聞き慣れた、大好きな声が響いた。

振り返ると、坂の上からランドセルを背負ったのり子が、クラスメイトの女の子二人と一緒に歩いてくるのが見えた。

のり子は太郎を見つけるなり、パタパタと駆け寄ってきて、太郎の前にしゃがみ込んだ。

「またお散歩してたの? お母さんに内緒で抜け出しちゃダメって言ったでしょー」

のり子はぷくっと頰を膨らませながらも、手は嬉しそうに太郎の頭をくしゃくしゃと撫で回す。

「わあ、のり子ちゃんの言ってたデブ猫ちゃん、本当に大きい!」

「ブチ模様が可愛い! ちょっと触ってもいい?」

のり子の友達が目を輝かせて手を伸ばしてきた。

だが、太郎はふいっと首を横に振り、のり子の後ろへと素早く隠れた。そして、「シャー」と威嚇する代わりに、低く短く「にゃん」と鳴いて、のり子以外の人間には触らせないというボス猫のプライドを見せた。

「あはは、太郎は恥ずかしがり屋なの。私以外の人には、あんまり触らせてくれないんだよ」

のり子はどこか誇らしげに胸を張り、友達にバイバイと手を振った。

「じゃあね! また明日!」

「うん、また明日ね、のり子ちゃん!」

友達と別れたのり子は、太郎と並んでゆっくりと坂道を歩き始めた。


「太郎、今日は何してたの? 」

のり子は学校であったことを、楽しそうに太郎に話しかける。算数のテストが難しかったこと、給食のカレーが美味しかったこと……。

太郎は興味なさそうに耳をピクピクと動かしながら、のり子の歩幅に合わせて、丸い体を揺らしながら隣を歩いた。

夕暮れの静かな街路に、のり子の明るい笑い声と、太郎が時折返す「にゃーん」という低い声が交互に響く。


家の玄関が見えてきた。

のり子が鍵を開けると、中から温かい夕飯の匂いと、お母さんの「おかえり」という声が優しく漏れてきた。

太郎はのり子の足元に体をすり寄せ、最後に一度だけ、沈みゆく夕日を見上げた。


戦う日々は遠く過ぎ去り、今、目の前には守るべき大切な「家族」がいる。

ここが、太郎の、そしてみんなの、かけがえのない安らぎの場所だった。



おしまい

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