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『猫のお話⑤ 飼い猫になっちゃった!』

満月の夜が来るたび、太郎は時々、街外れの小さな丘へ足を運んでいました。

あの白い歌姫が、月へ向かって歌っていた場所です。

丘の上には、今でも猫たちが集まることがありました。

けれど、もうあの歌声は聞こえません。

太郎は黙って満月を見上げると、静かに目を閉じました。


――ルナ。


胸の奥に残る名前は、今でも消えることがありませんでした。


ルナを失ってからの太郎は、以前にも増して恐れられる存在になっていました。

自分を襲った猫たちを、一匹残らず叩きのめした太郎は、ついにこの街最大の縄張りを手に入れたのです。

鋭い目。

傷だらけの体。

近づくだけで他の野良猫たちが道を空けるほどの威圧感。

誰も、太郎に逆らおうとはしませんでした。

けれどその瞳は、勝者のものには見えませんでした。

何か大切なものを失ったまま、ただ歩き続けているような、そんな深い孤独を湛えた目でした。


ある日の夕方。

太郎は住宅街の細い道を、いつものようにゆっくりと歩いていました。

夕陽がブチ模様の毛並みを橙色に染め、長い影を地面に落としています。

その時です。

「ガルルルル……!!」

突然、激しい唸り声が響きました。

振り返ると、大きな茶色い犬がこちらへ向かって全速力で走ってきます。

どうやら散歩中にリードが外れてしまったようでした。

耳を後ろに倒し、牙をむき出しにしたその勢いは、明らかに本気でした。

太郎はゆっくりと目を細めました。

(……飼い犬か。大きさはそこそこだが……)

相手の動きは速い。

けれど、太郎にとっては恐れるほどの相手ではありませんでした。

本気を出せば、簡単に追い払える。

太郎は低く唸り返し、背中の毛を逆立て、爪を立てて戦闘態勢を取りました。

その時でした。

「だ、だめぇぇっ!!」

小さな影が、太郎の前へ飛び出しました。

ランドセルを背負った少女――のり子でした。

「この子をいじめるなっ!!」

両手をいっぱいに広げ、必死に立ちふさがります。

けれど足はがたがたと震え、声も上ずっていました。

今にも泣き出しそうな顔です。

それでも、逃げません。

犬は勢いを止めずに迫ってきます。

太郎は目を見開きました。

(なんでだ……)

怖いはずです。

人間の子供なら、普通は悲鳴を上げて逃げるものだ。

なのに、この少女は自分を守ろうと、震えながらも一歩も引かない。

その瞬間、太郎の脳裏に、白い猫の姿が鮮やかによぎりました。

――ルナも、怖かったはずだ。

それでも、俺のところへ来ようとして、傷ついて……。

(この子も……ルナと同じなのか……?)

「コロ!! 待ちなさいっ!!」

遠くから、慌てた男の声が響きました。

飼い主らしい男性が全力で駆け寄り、間一髪で犬の首輪を掴みます。

「す、すみません!! 本当にすみません!!」

何度も頭を下げながら、男は犬を必死に引きずって去っていきました。


静けさが戻ります。

その場に残されたのり子は、へなへなとその場に座り込みました。

「も、もう……こわかったぁ……」

半べその顔で、小さな肩を震わせ、涙をぽろぽろとこぼしています。

太郎はしばらく黙ってその姿を見つめていました。

胸の奥で、何かが小さく揺れました。

そして――。

初めて、自分から人間へ近づきました。

ゆっくりと、警戒するように、一歩、また一歩。

のり子の目の前まで来ると、太郎は小さく鼻を鳴らし、彼女の匂いを確かめるように顔を近づけました。

のり子は涙をぬぐいながら、驚いたように目を丸くします。

「……へんな猫」

太郎は答えません。

けれど、その日は逃げませんでした。


それからでした。

のり子が学校帰りに近くの公園へ寄ると、太郎がいるようになったのは。

「太郎ー、ごはん持ってきたよ」

最初の頃、太郎は一定以上近づこうとはしませんでした。

少しでも手を伸ばされると、素早く物陰へ隠れてしまいます。

けれど、のり子は無理に触ろうとはしませんでした。

ただ隣へ座り、学校であったことを勝手に喋るだけです。

「今日ね、算数ぜんぜん分かんなかった」

「クラスの男子、ほんとバカなんだから」

「太郎はいいよねぇ、学校なくて」

太郎は興味なさそうに耳を動かすだけでした。

それでも、少しずつ変わっていきました。

のり子の手から、直接ご飯を食べるようになったのです。

それは太郎にとって、奇跡みたいなことでした。

誰も信じない。

誰にも近づかない。

そうやって生きてきた猫が、初めて誰かのすぐそばで警戒を解き始めたのです。

もちろん、まだ完全ではありませんでした。

突然どこかへ消える夜もありました。

満月の夜には、遠い目で空を見上げ、胸の奥でルナの歌声を思い出しては、静かに息を吐くこともありました。

それでも、気づけば太郎は、のり子の家の近くへ戻ってくるようになっていました。

夕暮れの縁側。

魚の焼ける匂い。

笑い声。

そして、自分を待っている小さな少女。

「太郎、また明日ね」

その言葉を聞くたびに、太郎の胸の奥で、凍りついていた何かが、ほんの少しずつ溶けていくのでした。


ある冬の日のことでした。

冷たい雨が、容赦なく街を叩いていました。

灰色の空から降り注ぐ雨粒は、まるで氷の針のように冷たく、風がそれを横殴りに吹きつけます。

太郎は、のり子の家の軒下で丸くなっていました。

濡れたブチ模様の毛並みは体にぴったりと張りつき、冷たい雨水がぽたぽたと地面に落ち続けています。

体温が徐々に奪われ、震えが止まりません。

それでも彼は、そこを離れませんでした。

なぜなら、そこにはのり子の気配があったからです。

のり子は玄関を開けると、すぐにしゃがみ込みました。

「太郎、風邪ひいちゃうよ……」

小さな手で傘を差し出そうとしますが、太郎はじっとこちらを見るだけで動きません。

野良猫だった太郎にとって、“家の中”は未知の場所でした。

閉じ込められるかもしれない。

逃げられなくなるかもしれない。

自由を失うかもしれない。

そんな長い年月の警戒心が、まだ心の奥底に根強く残っていたのです。

「入っておいで」

のり子が優しく、けれどはっきりと言いました。

温かい部屋の明かりが、玄関から柔らかく漏れています。

けれど太郎は動きません。

すると、のり子はぷくっと頬を膨らませました。

「……太郎が入らないなら、私もここにいる」

そう言って、のり子は本当に傘も差さずに軒下へ座り込んでしまいました。

制服のスカートがすぐに雨でびしょ濡れになり、小さな肩が冷たい風に震えます。

「のり子! 風邪ひくよ! 早く入りなさい!」

家の中から、お母さんが慌てた声を上げます。

けれど、のり子は首を横に振りました。

「だって、太郎も風邪ひいちゃうもん……」

小さな手で膝を抱えながら、太郎の隣にぴったりと寄り添うように座ります。

冷たい雨が、のり子の頰を伝い落ち、唇が少し青ざめています。

それでも、彼女は太郎から目を離しませんでした。

太郎は、その姿をじっと見つめていました。

――まただ。

怖いくせに。震えているくせに。

どうして、こいつは俺のためにそこまでするんだ。

脳裏に浮かぶのは、白い月のような猫。

――ルナも、そうだった。

怖い世界へ飛び出して、俺を守ろうとして……命を落として……。

胸の奥が、ちくりと痛みました。

同時に、温かいものがゆっくりと広がっていくのを感じました。

太郎はゆっくりと立ち上がりました。

のり子が顔を上げ、期待と心配が入り混じった瞳で彼を見ます。

太郎はしばらく玄関を見つめました。

雨の匂い。

畳の匂い。

人の暮らす、温かい食事の匂いと、家族の気配。

それらが混ざり合い、胸に染み入ってきます。

彼は少し迷うように目を細めました。

そして――。

ゆっくりと、一歩を踏み出しました。

玄関のたたきに前足を置き、慎重に匂いを嗅ぎ、もう一歩。

体が完全に家の中に入った瞬間、暖かい空気が濡れたブチ模様の毛並みを優しく包みました。

「……入った」

のり子が、小さく目を丸くします。

家族たちも、思わず顔を見合わせ、静かに息を飲みました。

それは、ほんの小さな一歩でした。

けれど太郎にとっては、

長い長い孤独の果てに辿り着いた、大きな一歩だったのです。



その夜。

太郎は、雨の音を聞きながら、暖かい部屋の隅で静かに眠りました。

誰かの気配がする場所で。

戦わなくてもいい場所で。

誰かが待っていてくれる場所で。

太郎は、生まれて初めて、“帰ってくる場所”を手に入れたのでした。

それから数ヶ月が過ぎました。

太郎の体は、目に見えて丸みを帯びていきました。

毎日、のり子が学校から帰ると用意してくれるご飯。

お母さんが作る温かいおかず。

時々、のり子のお父さんが買ってくる新鮮な猫缶。

戦う必要も、獲物を探す必要もない日々の中で、太郎の体はゆっくりと、しかし確実にふっくらとしていきました。

最初はまだ警戒心が残り、すぐに物陰に隠れていましたが、

今では縁側で堂々と昼寝をし、のり子が帰ってくると自分で玄関まで迎えに行くようになりました。

ブチ模様の毛並みは艶やかになり、以前の傷跡も柔らかい脂肪に包まれて少しずつ目立たなくなっていきます。

お腹は程よくたぷたぷと揺れ、階段を上る時も少し息が上がるほどに。


「太郎、すっごくデブになったね!」

のり子が笑いながら頰を突くと、太郎は「にゃー」と少し不満げに鳴きながらも、逃げません。

むしろその手に体を預け、ゴロゴロと喉を大きく鳴らします。

夜になると、太郎はのり子の布団の端に丸くなり、彼女の寝息を聞きながら眠ります。

満月の夜でも、もう丘へ行くことは少なくなりました。

代わりに、窓辺で月を眺め、静かにルナを想う時間が増えました。

その瞳には、以前のような深い孤独はもうなく、穏やかで優しい光が宿っています。

戦士だった頃の引き締まった体はすっかり影を潜め、

今や近所の子供たちから「デブ太郎」と呼ばれ、

のり子の家族にとってはかけがえのない家族の一員となりました。

ここが、太郎の帰ってくる場所。

ルナが教えてくれた「安らぎ」を、ようやく彼は手に入れたのです。


おしまい

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