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『猫のお話④ 猫のアイドル歌ってみた!』

それは、今から6年前のこと。

太郎がまだ若く、体つきも今のように丸くはなく、しなやかな筋肉を纏った一匹のブチ猫だった頃のお話です。


当時の太郎は、自分の力だけで縄張りを広げようと、毎日どこかで牙を剥き、爪を研いでいました。耳の小さな切れ込みは、その激しい戦いの勲章でした。夜の街路を駆け、ライバルたちと激しくぶつかり合い、血と痛みを糧に生きる日々。そんな彼が、ある日の激しい縄張り争いで深い傷を負い、力尽きて逃げ込んだ先が、一軒の静かな古い家の庭でした。

そこで出会ったのが、真っ白な猫のルナです。


「あなた、だれ? 怪我、痛そう……」


窓越しに外の世界を眺めるだけだった箱入り娘のルナは、血を流して倒れている太郎を怖がるどころか、心配そうに近寄ってきました。彼女の瞳には純粋な憂いだけが浮かび、震える足取りで自分のために用意された贅沢なご飯――新鮮なサーモンや鶏肉の煮込み、ミルクの入った小皿――を、迷わず庭に運び出したのです。

「野良だよ。名前なんてない……」

ぶっきらぼうに答える太郎でしたが、ルナの透き通るような美しい声を聞いていると、不思議と逆立っていた心が静まっていくのを感じました。その声は、傷ついた体に染み渡る温かな光のように、彼の荒れた心を優しく包みました。


それから、太郎の怪我が癒えるまで、秘密の時間が始まりました。夜の帳が下りる頃、太郎は庭の隅に現れ、窓越しにルナに「外の世界」の話を語り聞かせました。


日中は、縄張りを守るために外の世界で戦い続ける太郎。けれど夜が近づくと、彼は吸い寄せられるようにルナの住む家へと帰ってきました。庭の生け垣をくぐり、いつもの定位置で深く息をつくと、ようやく張り詰めていた戦士の顔が和らぎます。窓から漏れる柔らかな明かりと、自分を待っていてくれるルナの優しい気配。それは、孤独だった太郎が初めて手に入れた「安らぎ」という名の居場所でした。

「外は広いんだ。恐ろしい場所もあるが、月の光に照らされた川や、誰も知らない秘密の抜け道がある。風の匂いが変わる瞬間、遠くの山から流れてくる夜の香り……そんなものが、俺のすべてだった」

ルナは大きな瞳を輝かせ、夢見るように聞いていました。彼女の耳は少しも動かず、ただ太郎の言葉を一言一句逃さぬように傾け、時折小さく喉を鳴らして相槌を打つのでした。


ルナはもともとは神社で生まれた野良猫でした。

神社に遊びに来た人間の子供たちに連れていかれ、数日もしないうちに婦長さんの近所の空き地に捨てられたのです。

帰る道すら分からなくなったルナは、ただ鳴くばかりで、雨に打たれながら震えていたところを、婦長さんに拾われ、大切に育てられました。あの時の恐怖と孤独を、ルナは今でも時折、静かな瞳の奥に宿していました。


そしてある満月の夜。ルナが意を決したように言いました。

「太郎さん。私を、その広い世界へ連れて行って」

太郎は一瞬躊躇しましたが、彼女の強い眼差しに負けました。

「……一度きりだぞ。俺のすぐ後ろを離れるな」

深夜、太郎は器用に窓の鍵が開く隙間を見つけ、ルナを外へと導き出しました。

初めて踏む土の感触、草の匂い、夜風が白い毛を優しく撫でる感触。

ルナは一歩踏み出すたびに、小さく震えながらも、自由の空気を深く深く吸い込みました。その瞳には、恐怖と興奮と、未知への期待が混ざり合っていました。

太郎が案内したのは、街外れにある小さな丘でした。

そこからは、眠りについた街の明かりと、空に浮かぶ巨大な満月が一望できました。

「きれい……」

ルナの声が、夜の静寂に溶け込んでいきます。

その時、ルナは無意識に、天に向かって小さく喉を鳴らしました。


「にゃーん、にゃにゃーん……」


それは単なる鳴き声ではありませんでした。まるで月と対話しているような、魂を揺さぶる美しいメロディでした。


そして満月の夜が来るたびに、太郎はルナをあの丘の上へと連れ出しました。

丘の頂は、銀色の月光に包まれ、まるで別の世界のように幻想的でした。

風がそよぐたび、草の葉がきらめき、遠くの街の灯りは星屑のように瞬いていました。

巨大な満月は、夜空にぽっかりと浮かぶ神々しい玉のように輝き、その光がルナの純白の毛並みを、雪よりも白く、宝石よりもきらびやかに照らし出します。ルナの体全体が、月光を浴びて淡く光り、まるで白い妖精か、月の精霊そのものが地上に降り立ったかのように見えました。彼女の周囲には、ほのかな銀色の光の粒子が舞っているかのような、神秘的な雰囲気が漂っていました。

ルナはゆっくりと前足を揃え、胸を張り、天に向かって歌い始めました。

「にゃああぁん……にゃにゃーん……にゃおおぉ……にゃああぁ……にゃおおぉん……」

その声は、最初は静かで優しい調べでしたが、次第に夜の空気を深く震わせ、月光そのものを響かせるかのように大きく広がっていきました。

一音一音が、透明な水晶の鈴を何層にも重ねたように澄み渡り、魂の奥底まで染み入る甘く切ない旋律。

時には優しく囁くように低く、時には高く澄み渡るように伸び、時には哀しげに低くうねりながらも、どこか希望に満ちた響きを帯びていました。

それは猫の鳴き声の域を超え、月の女神が地上に降ろした奇跡の歌声そのものでした。歌声は丘全体を包み込み、風に乗って街の隅々まで優しく届いていきました。夜の闇がその旋律に溶け、星々さえも少しだけ明るく瞬いているように感じられました。


すると、不思議なことが起こりました。

街のあちこちで牙を剥き合い、血を流して争っていた野良猫たちが、ふと動きを止め、耳をぴんと立てました。

遠くの路地から、屋根の上から、暗い路地裏から、ゴミ箱の影から、影のような姿が次々と現れ、まるで磁石に引かれるように、吸い寄せられるように丘へと向かいます。

喧嘩の最中だった者たちは爪を収め、獲物を追っていた者たちは足を止め、怪我を負った者たちも痛みを忘れたように歩き出しました。誰もが無言で坂を登り、丘の周りに静かに座り込みました。


そこでは敵も味方もありませんでした。


毛を逆立て、傷だらけの荒くれ者たちも、ただ瞳を閉じ、ルナの歌に身を委ねるだけ。

歌声は彼らの闘争心を優しく溶かし、長い間忘れていた安らぎと、幼い頃の記憶のような温かさを思い出させました。

月光の下、数十匹、いや百匹近い猫たちが輪になって座り、銀色の霧のような幻想的な光景が広がります。

風がルナの歌を運び、街全体を一時的に包み込む――その時だけは、血で血を洗う縄張り争いが止み、静寂と平和が訪れるのでした。

まるでルナの歌が、月と猫たちを繋ぐ神聖な橋となったかのようでした。歌が終わった後も、猫たちはしばらくその場を動かず、余韻に浸るように月を見上げていました。

太郎はルナのすぐ隣に座り、その神々しい姿をただ見つめ続けました。

白い毛が月光に輝き、歌声が夜空に溶けていく様子は、まるでルナ自身が月の化身となったかのようでした。彼の胸は熱く高鳴り、言葉にできない想いが溢れそうになっていました。

そんなルナの姿を見守るうちに、若い太郎の心には、名前のない熱い想いが芽生えていきました。それは、縄張りを手に入れた時の達成感とも、勝利の喜びとも違う、もっと深く、切ない感情――恋心でした。

不器用な太郎は言葉にこそしませんでしたが、その視線はいつも、ルナだけを優しく追っていました。

実は、ルナもとっくに気づいていました。自分を外へ連れ出し、広い世界を教えてくれた、勇敢で心優しい騎士のこと。ルナの心もまた、太郎への愛しさでいっぱいになっていたのです。

しかし、幸せは突然に終わりを告げました。


ある満月の夜から数日後、太郎は複数の猫たちによる卑劣な集団襲撃を受けた。

縄張りの境界で待ち伏せされ、逃げ場を塞がれたまま爪と牙の嵐に晒された。

若い頃の太郎でも、十数匹の連携攻撃には抗しきれず、ボロボロに傷つき力尽きた。


その夜、街のあちこちで勝利の雄叫びが上がっていた。

「見たか! あのブチの化け物をやっと倒したぞ!」

「もうあの縄張りは俺たちのものだ。太郎の時代は終わったんだ!」

「奴がどれだけ強かろうと、数の前じゃ無力だ。俺たちが街の頂点に立つんだよ!」

襲撃に加わった猫たちの仲間たちが、路地裏や屋根の上、ゴミ置き場の影で大声で自慢を繰り返していた。

血の匂いをまとった彼らは、興奮冷めやらぬ様子で他の野良猫たちに言いふらしていた。

「次は俺たちが全部支配する。誰にも文句は言わせねえ!」

そんな声は夜風に乗って、意外と遠くの家々の庭先まで届いていた。


窓辺でいつも通り太郎を待っていたルナは、近所の野良猫が興奮した様子で木の上で叫んでいる声を聞いてしまった。

「……太郎さん……が、深い傷を負って……倒れた?」

ルナの瞳が大きく見開かれた。

箱入り娘の彼女が、初めて恐怖を振り切って行動を起こした瞬間だった。

その報せを聞きつけたルナは、初めて一人で家を飛び出しました。

必死に駆ける白い影。

しかし激しいクラクションとタイヤの音が響き、ルナは車に跳ねられてしまいました。


血を流しながら這うようにして、太郎がルナの元へ辿り着いたとき、ルナの体は既に赤く染まり、小さく震えていました。

「……太郎さん……来てくれて、ありがとう。

 私、外の世界を知れて……本当に、幸せだった……」

ルナは最後に、かすかな歌声を残して、静かに息を引き取りました。


その夜、太郎は一人で婦長さんの家へと向かいました。

庭の隅で、声を殺して泣きました。悲しい声で鳴き続けました。その鳴き声は、これまで彼が味わったどんな痛みよりも深く、胸を抉るものでした。

婦長さんが庭に出てきたとき、そこにいたのは太郎だけでした。ルナの姿はどこにもありませんでした。


「……ルナに、何かあったのね」


婦長さんは震える手で太郎の傷を手当てしてあげました。

本当は、婦長さんの心も乱れに乱れていました。大切に育てたルナの最期を看取ることすらできなかった。

それでも婦長さんは、太郎に優しく接し続けました。優しい言葉をかけ、手当ての合間にそっと頭を撫でるその手は、温かくも少し冷たく震えていました。

数週間、太郎は婦長さんの家でお世話になりました。


傷が癒えると、彼は静かに去っていきました。

その後、太郎は自分を襲った野良猫たちを、すべて探し出し、叩きのめしました。

血と牙と爪の激しい報復でした。

それが、太郎が今の縄張りを確立した瞬間でした。

婦長さんは、ルナの最後を看取ることもできず、どこかで寂しく旅立ったのだと思い、それからずっと、心に影を落としたまま過ごしています。


――この影が、後の「満月猫森集会」でようやく溶けていくことになるのです。


満月の夜が来るたび、太郎は時々、街外れの小さな丘へ足を運んでいました。

あの白い歌姫が、月へ向かって歌っていた場所です。

丘の上には、今でも猫たちが集まることがありました。

けれど、もうあの歌声は聞こえません。

太郎は黙って満月を見上げると、静かに目を閉じました。

――ルナ。

胸の奥に残る名前は、今でも消えることがありませんでした。

ルナを失ってからの太郎は、以前にも増して恐れられる存在になっていました。

自分を襲った猫たちを、一匹残らず叩きのめした太郎は、ついにこの街最大の縄張りを手に入れたのです。

鋭い目。

傷だらけの体。

近づくだけで他の野良猫たちが道を空けるほどの威圧感。

誰も、太郎に逆らおうとはしませんでした。

けれどその瞳は、勝者のものには見えませんでした。

何か大切なものを失ったまま、ただ歩き続けているような、そんな孤独な目でした。


おしまい

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