『猫のお話⑫ 「巡る季節と太郎の縄張り」』
凍てつくような厳しい冬がようやく去り、街には柔らかな光とともに、待ちわびた春が巡ってきた。
吹き抜ける風には湿り気を帯びた土の匂いと若草の香りが混ざり、小道や空き地のあちこちには、淡い黄色の菜の花やピンクのレンゲが咲き誇っている。
日当たりの良いあぜ道では、春の陽気に誘われた地域猫たちが軽やかな足取りで黄色い蝶を追いかけたり、柔らかな日差しが注ぐ草むらの中で、体を伸ばして気持ちよさそうにまどろんでいたりした。
今朝、ボスの太郎はふらりと、あの病院の裏手へと足を向けた。
勝手口の近くでは、いつものように白衣にエプロン姿の婦長さんが、腰をかがめて地域猫たちにご飯を配っているところだった。
「お、親分! 今日は何事か御用ですかい?」
器から顔を上げた茶トラが、嬉しそうに目を細めて声をかけてくる。
「いや、ただお前たちの顔を見に来ただけだ。……みんな、無事にあの冬を越えられたみたいだな」
太郎が目を細めて喉を鳴らすと、周りの猫たちも口々に頷いた。
「へえ! 婦長さんが冬の間も欠かさず温かいご飯をくれたおかげですぜ。誰一匹欠けることなく、みんなピンピンしてます!」
太郎が足音もなく婦長さんの足元へ歩み寄り、静かに「にゃーん」と鳴いた。
婦長さんはふっと顔を上げ、太郎の姿を認めるなり、パッと満開の花が咲いたような笑顔を見せた。
「あら、太郎ちゃん! 来てくれたのね」
婦長さんは愛おしそうに太郎の大きな頭を撫でながら、小さな声で優しく囁きかけた。
「あの時はありがとうね。秋の満月のお祭り、本当に夢のように温かくて……今でも思い出すのよ」
そう言うと、婦長さんは太郎の前に、とびきり美味しそうなパウチのご飯を山盛りにした小皿を置いてくれた。
太郎は美味しそうに口を動かし、綺麗に平らげると、婦長さんに満足げなひと鳴きを残して歩き出した。
満腹になった太郎は、たぷたぷと揺れる重いお腹を揺らしながら、のんびりとあぜ道を進んでいく。
ぽかぽかとした陽気が毛並みを温め、歩くたびに微かな眠気が襲ってくる。
すると、植え込みの陰からひょっこりと顔を出した一匹の野良猫が、弾んだ声で話しかけてきた。
「あっ、親分! 聞きましたかい? しましまのやつに、子供が無事に生まれたそうですぜ!」
「……なに? あいつ、いつの間に父親になってやがったんだ」
太郎は目を丸くしたが、すぐに口元を緩めた。
「そうか。ちょっと顔を見に行ってやるか」
「へえ、ぜひそうしてやってください! 神社にいますよ!」
太郎が足を伸ばして古い神社の境内に足を踏み入れると、柔らかな日差しが差し込む拝殿の軒下に、二匹の寄り添う影があった。
弟分のしまねこと、艶やかな美しい毛並みをしたキジ猫が、生まれたばかりの小さな三匹の子猫を大切そうに毛づくろいしている。子猫たちはまだ目も開かないうちから、母親のお腹に顔を埋めて一生懸命ミルクを飲んでいた。
「おう、しましま。子供が生まれたんだってな」
太郎が低く声をかけると、二匹は驚いたように顔を上げた。
「お、親分……! 報告が遅くなってすみません!」
しまねこが慌てて立ち上がろうとするのを、太郎は前足で制した。
「いいってことよ。それより、そっちが嫁さんか?」
キジ猫は緊張した面持ちで太郎を見つめ、前足を揃えてぺこりと頭を下げた。
しまねこが照れくさそうに頭を掻きながら紹介する。
「親分の太郎さんだよ。いつも話してるだろ、俺たちの頼れるボスなんだ。……で、親分、こっちがキジです。隣町の集会に行った時に知り合って……あはは」
太郎は身を乗り出し、子猫たちの小さな耳やピンク色の肉球をじっと眺めると、ニヤリと笑った。
「そうかそうか。母親のキジに似て、ずいぶん可愛い赤ん坊だな。……しましまのお前に似なくて本当に良かったぜ」
「ひでえよ親分〜! 俺に似てたっていいじゃないですか!」
しまねこの情けない叫び声に、キジ猫も思わずくすくすと笑い、境内には春風のように穏やかな空気が満ちた。
社殿の裏手へ回ると、そこには他にもたくさんの野良猫たちが日向ぼっこをしていた。
太郎の姿を見るなり、猫たちが一斉に集まってくる。
「親分!」
「冬の間は本当に助かりました!」
「ミケの家の縁の下で、おばあちゃんが用意してくれた温かい布団に潜り込んで、みんなで団子になって乗り切ったんですよ」
口々にお礼を言う仲間たちに、太郎は首を振って静かに言った。
「礼なら、ミケのところのおばあちゃんに言ってくれ。人間のお年寄りだからな、何か困ったことはないか、具合が悪そうじゃないか、お前たちも日頃からしっかり見守ってやるんだぞ」
「はい、もちろんです! ミケの家のおばあちゃんは、俺たち全員の大恩人ですから!」
猫たちは力強く声を揃えて頷いた。
仲間たちと別れた太郎は、その足で三丁目の古い一軒家へと向かった。
あの大雪の冬、猫たちに命の温もりを分けてくれた、あのおばあちゃんとミケの家だ。
生け垣の隙間から音もなく庭へと忍び込むと、南向きの縁側には、溢れんばかりの春の日差しがぽかぽかと降り注いでいた。
ガラス戸は少し開け放たれ、柔らかな風がレースのカーテンを優しく揺らしている。
縁側の籐椅子には、あのおばあちゃんが腰掛けていた。
膝の上には薄手のブランケットが掛けられ、眼鏡を少しずらして、心地よい春の陽気に誘われるように静かにうとうとと船を漕いでいる。
そしてその膝の上には、丸くなって幸せそうに目を細めている三毛猫――ミケの姿があった。
おばあちゃんの節くれだった優しい手が、無意識のようにミケの背中をゆっくりと撫でている。
ミケの首元では、あの小さな鈴が、風に吹かれてチリンと微かに鳴った。
壁の低い位置には、あの日約束した非常呼び出しボタンが、しっかりと取り付けられているのが見えた。
太郎の足音に気づいたのか、ミケがふっと顔を上げ、庭の植え込みの影にいる太郎と視線が重なった。
ミケは声をあげておばあちゃんを起こしてしまわないよう、喉をごろごろと深く鳴らし、前足を揃えて静かに目を細めた。
太郎もまた、声は出さず、ボスの威厳と親愛を込めて、優しくひとつだけ首を縦に振って合図を返した。
(……元気にやってるな。それでいい)
穏やかな寝息を立てるおばあちゃんと、その温もりに包まれるミケの姿を静かに見届け、太郎は足音を立てずに庭を後にした。
続いて太郎は、静かな木立に囲まれた地蔵尊の水飲み場へと足を運んだ。
かつて商人猫から譲り受けた「ひげを震わせる道具」が激しくびりりと鳴り響き、とんでもない大事件が起きたと太郎が全速力で駆けつけた、あの場所だ。
木漏れ日が揺れる石畳の奥から、くぐもった楽しげな話し声が聞こえてくる。
「――それでね、ご主人が散歩の途中で落とした手袋を拾ってあげたら、すっごく褒めてくれたんだ、わん!」
「へえ、さすがだなあ。俺たち猫じゃ、重い手袋をくわえて走るなんて芸当はできないからな」
水飲み場の脇で、あの大きな体をゆったりと伏せて尻尾をご機嫌にパタパタと振っているのは、かつて道に迷って大騒動を巻き起こしたあの大型犬だった。
そしてそのすぐ隣で、冷たい清水を美味しそうにペロペロと舐めていたのは、黒猫の「黒」だ。
かつては巨大な犬を前に腰を抜かし、「食われる……!」と涙目で半べそをかいていたあの黒が、今ではすっかり打ち解け、犬の太い前足に自分の細い体をすり寄せている。
太郎がのっそりと姿を現すと、黒がパッと顔を輝かせた。
「あっ、親分!」
大型犬も嬉しそうに耳をピンと立て、太い尻尾を大きく振った。
「太郎さん、こんにちは! いいお天気ですね、わん!」
「おう」
太郎は目を細め、仲睦まじい二匹を交互に見つめてニヤリと笑った。
「あの時はひげがビリビリ鳴って駆けつけてみりゃ、すっかり腰を抜かして『食われる〜!』なんてみっともなく泣き叫んじゃってたのによ。いつの間にかすっかり仲良しだな」
黒は照れくさそうにひげを揺らし、恥ずかしそうに前足で顔を隠した。
「親分、それ言わないでくださいよ〜! あの時は本当に肝を冷やしたんですから!」
「僕もただ道を聞きたかっただけなのに、太郎さんがものすごい形相で飛んできてびっくりしました、わん!」
大型犬が人懐っこく大きな舌を出すと、太郎も思わず吹き出した。
「全くだ。俺もあの時は肝を冷やしたが……まさかただの迷子犬だったとはな」
三匹の間には種族を超えた温かな笑い声が響き渡った。
(……フッ、あの時のガラクタ道具も、無駄じゃなかったな)
太郎はかつての騒動を懐かしく思い返しながら満足げに喉を鳴らし、二匹に小さく手を挙げてその場を後にした。
昼下がりになり、心地よい春風が草木を優しく揺らしていた。
太郎が猫たちの溜まり場である広い原っぱに差し掛かると、少し開けた草むらで、大人猫たちが子猫たちを車座に取り囲んでいるのが見えた。
何をしているのかと足を止め、耳を澄ませてみる。
「いいかぁ、みんな。道路を渡る時は、絶対に茂みから急に飛び出したらあかんぞ。人間が乗ってる『鉄の塊』はな、ものすごいスピードで突っ込んでくるんだからな」
「夜は特に危険だぞ! 目くらましみたいに強烈な光を放ってくるから、光を正面から見ちゃダメだ。影の中に素早く飛び込むんだ」
「どうしても怖くて渡れない時は、無理をしないで、必ず近くにいる大人の猫に一緒に渡ってもらうこと。……分かったな?」
大人猫たちの真剣な教えに、子猫たちは小さな尻尾をピンと立てて、「にゃ〜ん!」「はい!」と元気よく返事をしている。
かつて太郎が命がけで開いた「安全教室」の教えが、こうして次の世代へと当たり前のように受け継がれているのだ。
(……ちゃんと伝わってやがるな)
その光景を遠くから見守りながら、太郎の口元には自然と誇らしげな笑みがこぼれていた。
心穏やかに家への帰路についていた太郎の前に、見覚えのある影がふらりと現れた。
片耳の垂れた不思議な猫――あの商人猫だった。
「親分さん、いい天気のお散歩ですかい?」
背中には、以前のようなパンパンの風呂敷ではなく、小さく折りたたまれた空の包みが乗っている。
「お前こそ、その旅支度……またどこかへ行くのか?」
「へえ。新しい商品の仕入れに、また遠くの街まで旅に出ようと思いましてね。今度こそは親分やみんなに『ガラクタ』だなんて言われないように、とびきりの逸品を仕入れてきますぜ」
商人猫はそう言ってニッと笑うと、首元の小さな袋をごそごそと探った。
「そうだ。旅立つ前に、ひとつだけまだ残っていたのを思い出しましてね……親分、これをお礼に差し上げますよ」
商人が差し出した前足の上で、小さな一粒のカリカリが、春の陽光を浴びて七色にきらりと輝いた。
「……いいのか?」
太郎が尋ねると、商人猫は深く頷いた。
「もちろんですよ。またこの街に戻ってきた時は、仲良くしてくださいね。……では、行ってまいります!」
商人猫はひらりと身を翻すと、軽やかな足取りで春の陽炎の向こうへと旅立っていった。
太郎は地面に残された七色カリカリをしばし見つめた後、器用に前足でつまみ上げ、首輪と首の肉の隙間にしっかりと挟み込んだ。
(やれやれ……また厄介なものを手に入れちまったが、まあ、持っておくか)
太郎は重い腰を上げ、我が家へと足を速めた。
庭の植え込みを抜け、リビングの掃き出し窓から家の中へ入ると、室内には楽しげな笑い声が溢れていた。
テーブルを囲んで、お父さんとお母さん、そしてのり子が何やら仲良く話している。
太郎の足音に気づいたのり子が、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「あ、太郎! おかえり〜!」
のり子は満面の笑みで両手を広げ、太郎の脇の下に手を入れて勢いよく抱き上げようとした。
――だが。
「……ぐぐっ……! た、太郎……!? あんたまた一段とデブった……!? 重くて持ち上がらないよ〜〜!」
のり子は顔を真っ赤にして叫んだ。
太郎は目を細め、「にゃがーーん!」とひどく不満そうな、抗議の声を張り上げた。
失礼なことを言うな、これは冬の蓄えがまだ少し残っているだけだ――そう言いたげに体をよじった、その瞬間だった。
ポロリ。
太郎の首輪の隙間から、挟んであった小さな七色の粒が滑り落ち、リビングのフローリングの上にコロコロと転がった。
「……あっ!」
目ざといのり子は、床の上で虹色にきらめくその粒を見逃さなかった。
しゃがみ込み、指先でひょいとつまみ上げる。
「これ、あの七色カリカリだ! 太郎、またどこかで見つけてきたの!?」
のり子は目を輝かせ、その粒をまじまじと見つめた。
過去の冒険のワクワクが甦ったのか、それとも持ち前の無邪気さゆえか――のり子は深く考えることもなく、吸い寄せられるように反射的にそれをひょいと口元へと運ぼうとした。
「また猫になっちゃおっかなー、なんちゃって……」
「にゃ、にゃああああああああああーーーッ!!!!(食うなーーーーッ!!!!)」
リビングいっぱいに、太郎の魂の底からの絶叫が響き渡った。
その日の夜。
昼間の賑やかな大騒ぎが嘘のように静まり返った頃、太郎は街外れのあの丘の上に立っていた。
澄み切った春の夜空には、煌々とした満月が浮かび、柔らかな銀色の光が太郎の体を優しく照らし出している。
夜風が若草の香りを運んで吹き抜ける中、太郎は静かに目を細めて月を見上げた。
その月灯りの中に、太郎は確かに、あの愛おしいルナの面影を感じていた。
(……ルナ。俺たちの街は、今日も平和だぜ)
街には新しい命が巡り、温かな絆がしっかりと受け継がれている。
仲間たちも、そして太郎自身も、かけがえのない温もりの中で生きている。
太郎は誇らしげに、そして穏やかに喉を鳴らすと、自分を待つ大切な我が家へと、ゆっくりと歩き出した。
おしまい




